結論から申し上げて続いています。自分でも不思議ですが、毎週1回のペースでどこかの掃除をボランティアでやっています。平和公園のトイレ掃除から始まって、本通りでの吐き捨てたチューインガムの掃除(ガム取り)。そして先月末は水族館再開前の宮島で、公衆トイレの掃除を手伝ってきました。
トイレ掃除に、今度はガム取りも加わっていますが、掃除の内容は両者では全く違います。ちょっとガム取りについて触れてみます。トイレの汚れは見れば分かりますし、匂いもしますから汚れていればはっきり分かります。でも、ガムの汚れは一見分かりません。普段の景色に溶け込んでいて、意識してマジマジと足下を見なければ、たいていの人は分からないでしょう。でも、掃除用具を手にしてガム取りをすると思って見ると、どれだけ汚れているのか、はっきりと分かります。
ガムの汚れってどのなものかお分かりでしょうか。簡単に言うと丸くなった黒いシミです。路上に吐き捨てられたガムは、時間を経てたくさんの人の靴底で踏まれていきますから、丸くぺらぺらに引き伸ばされて黒くなって路面にへばりつきます。意識しないでそれを見ると、アスファルト道路の補修工事で、ちょうどつなぎ目の盛り上がったところとイメージが似ています。
これをどうやって取るのかと言えば、まずヘラを使います。100円ショップに売っているもので十分ですが、しなりのない堅めのものが使いやすそうです。路面にこびりついたガムを剥がし取っていきますが、取りきれない部分はガム取りに適した、あるいは専用の洗剤というのがあって(ちょっと高額)、それを数滴たらし金属ブラシでこすり、そのあと布でふきとれば完了です。
これの繰り返し、と言えば簡単そうですが、これもやってみればお分かりいただけます。腰をかがめた姿勢を続けますので、結構しんどくなったりします。でも、ここが一つきれいになったから、となりのガムも取っちゃおう、とついつい手が止まらなくなる感覚を覚えます。自分自身に関しては、決して高尚な思いからの行動ではなさそうです。ちょうどポテトチップスが好きな人が、手が止まらなくなるのに近いかもしれません。
作業の間は、トイレ掃除と違って空間が閉鎖されていません。かがんで作業をしているすぐそばを通行人が通り過ぎていきます。「ごくろうさま」と声をかけてくれる人もいれば、全く存在さえ目に入らないといった素振りで足早に過ぎていく人もいて、見慣れた町並みにそれまでとは全く違った映像が頭上で展開されて、それはそれで新鮮であったりします。
作業をやり終えた後は、やはり何かしらの充実感を覚えます。気持ちは清々しくなるのが分かります。作業はたいてい朝の早い時間に行いますから、その日一日について、イヤなことを思い起こすことはありません。むしろ、「いいことが起こりそう」とポジティブな気持ちになりがちです。この気持ちは上手に使わせてもらおうと思っています。
こうしてお読みいただくと、「こいつ、相当はまってきたな」「そのうち、○○掃除の会とか作るんじゃないか」と思われるかもしれません。でも、それはちょっと自分の気持ちとは違うようです。確かにいろんな場所で掃除をするのはやりがいもあるし、周りの方たちに喜んでいただけることも正直うれしく思います。でも、いつやめても困らない「趣味」だと位置づけるのが一番自分には合っているようです。
話が変わりますが、以前環境活動のことを「巻末雑感」に書いたことがあります。環境活動や平和運動というのは大切な活動ですが、ともすると「闘っている時」に一番充実します。「××反対」と闘う相手が存在して光があてられる側面が見えてしまいます。仮に自分たちの要求が実現すると目標を失ってしまいます。そして、どこからか新たな敵を知らず知らず呼び込んできます。
掃除にも、同じような側面があるように思えます。掃除をする人がいきいきと充実するのは、ゴミを捨てる人、汚す人がいるからです。便器を汚さなければトイレ掃除はできません。ガムを捨てなければガム取りはできません。でも、どちらもできなくなる、いやしなくてもいい世の中の方が、ずっと住み心地の良い世の中であるのは疑いの余地はありません。教育者の端くれとして、この視点は捨て去ることはできません。
ただ、現状では誰かがやらないと公衆トイレはどんどん汚れていくし、道路はガムの丸い玉が路面に増えていく一方です。「汚れているから、きれいにする」それくらいの意識で続けていこうと思っています。ちなみに、週末はあるJRの小さな駅でガム取りをやっていることが多いです。かがんでせっせとガムを取っているおじさんを見かけたら、温かい気持ちで通り過ぎて下さいね。
(2012.8.8)