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ある少年の残したメッセージから

グリーン・メイト「巻末雑感」−バックナンバー・セレクション−

 

「巻末雑感」の以前のものから、今でも読んでいただけそうなものを、いくつか選んで載せてみました。

 

 

 

  2009年
 

2009年12月

■きっといい日

 

 今年も余すところ一か月となりました。いろいろなことがありましたが、みなさんにとって今年はどんな1年だったのでしょうか。
 当館にもいろいろなことがありました。嬉しいこともあったし、そうでないこともちょっとだけあったかもしれません。どんなに精一杯を尽くしても、思いが伝わらずにやりきれない思いを体験したこともあったような気もしますが、それでも、生徒さんたちの元気な声や、保護者の方の温かい声に支えられて、下がりかけていた体温を再上昇させる力に変えさせてもらってきたように感じます。
 広く見渡すと、いまだに心ないやりとりが横行して止みません。助け合っていくのと、奪い合っていくのでは、どっちが居心地がいいか分かりきったことのようですが、なかなか居心地の良さが広がってはいないようです。
 でも、居心地の良さを望まない人なんていないでしょう。今はそれぞれに事情あって、奪い合いに参加していないといけないのかもしれません。それは責めたり責められたりすることでもないようです。
 来年はどんな年になるでしょうか?「不安」というタイトルの文章はいくらでも書けそうですが、それは消しゴムで消してしまいましょう。どうなるかは自分たちで決めれば良いことです。きっといい年、いい日の登場となっていきます。

 

2009年11月

■信じるということ

 

 青葉学習館は、時折お仲間の先生方の集まる勉強会の会場になります。気楽な集まりで利害をあまり考えず、自由に発言出来る会として7年ほど続いています。
 先月も実施をしたのですが、この時はある学校の先生をお招きしていて、当日の進行には少しばかりの神経を使っていました。参加されたみなさんに気持ちよく帰っていただく、常に先生方にお伝えしていることで、今回も例外とすることはできません。そんな思いで当日を迎えました。朝一番に青葉へ電話がかかってきました。ご出席予定だった一人の先生が急用で来られないとのこと。前日連絡があった方を含めてお二人の欠席です。
 勉強会が始まりました。いつものように和やかなムードで進行していますが、一つ気がかりが残っていました。もう一人来られていないのです。無断欠席されるような方ではありません。有意義な発言も期待していました。でもとうとう来られぬまま、会は終わってしまいました。
 先日、その先生が当館へ来られました。詳しくは言えませんが、当日は生徒の相談事で他県まで行かれていたとのこと、きっと真剣勝負の場面で連絡どころではなかったのでしょう。改めて謝罪を頂いたのですが、そんなの不要だと思いました。その人のことを徹底して信じ切ること、こちらが改めて教えられた出来事でした。

 

2009年10月

■喜怒哀楽

 

 赤ちゃんは素直です。楽しければ笑うし、お腹がすけば泣きもします。喜怒哀楽がそのまま表情に表れます。無邪気なままです。
 ところが年齢が上がっていくつれて、喜怒哀楽が表情から薄れていきがちです。むしろ大人の社会では、いかなる状況でも眉一つ動かさず、表情一つ変えず冷静な対応をとることが「優れたこと」と評価されることが少なくありません。効率を重視する大人社会では、それは当然のことのように受け入れられてきました。
 そして、そのような人を理想の完成形として就学期に多くの学びを経験していきます。でもやっぱり何か味気なさを感じないではいられません。周囲の賞賛と引き換えに、豊かな表情を差し出していくというのはどうでしょうか。
 先日、ある中高一貫校の授業を見学致しました。貴重な機会を頂き感謝しているのですが、やはり気になりました。生徒さんの喜怒哀楽が薄れています。淡々と進む授業に無機的なものをどうしても感じてしまいます。ここに笑顔や時には怒った顔だって加わるればどれだけ豊かな空間になるだろうか、と思うのでした。
 失せゆく喜怒哀楽を呼び戻すのは、まず大人の役割のように思います。どれだけ喜怒哀楽に心を揺り動かせるでしょうか。そんなことを考ている間に、階段から邪気のない喜怒哀楽たっぷりの生徒たちの足音が聞こえてきました。

 

2009年9月

■夏の終わりに…

 

 毎回お届けしていますこの「巻末雑感」、スムーズに書いているのかと言えば全く違います。書いてはペンが何度も止まります。「こんな内容のつもりじゃなかったのに…」と思って最初から書き直しなんてことも少なからずあります。
 ああでもないこうでもないと頭の中でゴチャゴチャと考えていますから、書き終えた後には相当エネルギーを使っています。大した量でもないし、大した内容でなくてもです。
 中には、ペンが勝手に動くように文章を書かれる方がいます。それでいてしっかりとした文章です。もちろん、疲れているようでもありません。この違いはいったい何だ、と思います。
 頭を使って書いている者からすれば、恐らく自分の中の乏しい言葉のストックを、何とか組み合わせて駆使する、その範囲を超えない文章になっているような気がします。ところが、さらさら書ける方は「自分で書いている」という感覚ではないのかもしれません。エネルギーを浪費しないから穏やかでいられます。穏やかな人には周りに人が集まります。
 さらに、残暑に後押しされてカリカリと書いていたのでは、周りの人もたまったものではないでしょう。きっと文書作成だけでなく、日頃の行動でも同じことが言えるのではという気がします。日毎に秋は深まっていきます。穏やかに過ごしていきたいものと思います。

 

 

2009年8月

■まだ半分…もう半分?

 

 ものの見方の例として、よくコップの中の半分の水の話が用いられます。このコップの水を「まだ半分ある」と見るか「もう半分しかない」と見るかで、心の持ちようが変わるというのです。前者は楽観視やプラス思考と言われ、後者は悲観視やマイナス思考と呼ばれます。通常は、たいてい前者の方を薦める話となっていきます。
 確かに、物事は悲観的に見るより、楽観的に見た方が気は楽です。時には、悲観的な見方はそれ自体が恐ろしいほどの負のパワーを発します。あるカウンセラーは、悲観的な相談を受け過ぎて、自らが入院してしまいました。
 では、「まだ半分」という見方が正しいと言いたいのかいえば、そうではありません。ちょっと斜めから見れば、楽観視は悲観視の存在を前提として成立していることが分かります。どういうことかと言えば、楽観視は、実はコップの中の水が空になることを恐れているようにも映るのです。だから、その場面に直面しないために「まだある。まだある…」と言い続けていなければならない、という解釈もできます。
 飲み干した水は、のどを潤してくれます。ならば、残りの水がどれだけだろうと、「気にならない」というのが一番楽な気がします。ところで、夏休みも半ばにさしかかってきました。みなさんにとっては「まだ半分」ですか?それとも、「もう半分」ですか?…

 

2009年7月

■まばたき一瞬で…

 

 緊張を強いられる瞬間は、誰だって直面したくありません。できたら目をつむっている間に、そのシーンが通り過ぎていたらどんなに良いか、と考えることがあるかもしれません。これから受験を迎える生徒さんなら、まばたきの間に入試のシーンが終了、といった具合です。しかもその間に事態が「好転」なら言うことありません。
 でも、実際にはそんなことは起こりません。どんなに目をパチパチやっても、何度目をつむっても、開いた目がとらえる光景は、1秒前のものと何ら変わってはいません。誰だって分かっていることでしょうが、「ひょっとしたら、この次は?…」とほのかな期待を寄せ、また目をつむってみたりします。
 ところで、ほんの一瞬で状況が好転するものってないでしょうか?…ありました…。オセロです。たった一つの石によって、瞬く間に盤上の白黒が反転します。それまでの状況などお構いなしに形勢逆転が起こります。誰もが憧れをいだくシーンの手軽な疑似体験です。
 この一瞬の反転には条件があります。それは盤上に十分な石が置かれていることです。そうなるまでは、盤上では静かな展開が繰り返されます。形勢不利であっても、ただただ静かに石を置き続けます。そして、ついに投じた一石で盤上はまばたき一瞬で大転換が起こります。「ひょっとしたら…」が起こるかもしれませんね。

 

2009年6月

■返り咲きました

 

 何年か前の春のこと、高校へ合格したお礼にと保護者の方から花の鉢植えをいただきました。デンドロビウムという花で、晩秋から春先にかけて咲くきれいな花です。赤ちゃんの手のひら大の白い花びらは、先端が淡い桜色に染まり、凛とした佇まいの中にも、まだ寒い季節の冷たい空気に温もり与える優しさが感じられました。
 このデンドロビウム、進学していった生徒の顔を思い浮かべると、花の季節が過ぎても、枯らしてしまうことをためらい、大きめの鉢に植え替えて水をやり続けました。背丈も大きくなり、葉の数も増えていき、そのまま1シーズンが過ぎました。幾多に株分かれをして成長したものの、その春には花を咲かせませんでした。
その翌年も、そのまた翌年も花は咲きませんでした。茎の成長も止まり、次第に衰えてを見せていく姿に、花の咲いた映像を結びつけることは、もはやありませんでした。それでも、何を考えるでもなく、毎日水やりは続けていました。
 すると、ついこの間のことです。咲いたのです。つぼみがついたかと思うと、数日の内に数個の小さな花が開花しました。当館の入口の隅っこで、花屋に並んだ花とは比べものにならないほど地味につつましく咲いています。見逃されるかもしれない、小さな存在ではあるのですが、開花時期を超えて、なお返り咲いたその姿に、底知れぬ生命力を感じたのでした。

 

2009年5月

■「東南の風」を起こせ

 

 巨大な壁のように立ちはだかる存在が目の前にあります。圧倒的な強さを誇り、束になってかかっていってもかないそうにもありません。でも、じっとしていれば、その存在に呑み込まれてしまいます。
 そんな巨大な存在を相手に、唯一活路を見いだせそうなものが火です。火の力を借りれば巨大な相手を退散させることも可能です。ただしそれにも一つ問題があります。風の向きです。巨大な相手が陣取る場所へ向かって、東南から風が吹かないといけません。初冬の寒い時期に南寄りの暖かい風は期待できません。
 しかし、風向きは変わりました。東南の風が吹き始め、相手に向けられた火が一斉に広がり大きな打撃を受けた巨大な相手は、散り散りになって北へと退却していきます。ご存じ三国志の「赤壁の戦い」のシーンです。わずか数万の陣営で、二十万を超える相手陣営を追い払うことが可能であることを記した場面です。
 この物語、史実に基づいていますが、創作もいろいろと含まれています。東南の風は、孔明が祭壇の上で天に祈って吹かせたとされています。脚色でしょうが、1800年の年月を超えた今も「物語」として広く語られています。
 巨大な壁は、今なお存在しているようです。でも現代にも、みんなに活路を切り開く「東南の風」を起こす若者は存在しているようです。

 

2009年4月

■水が温んで…

 

 「花冷え」という言葉があります。桜がちらほらと咲き始めてきたのに、なかなか暖かくならなくて、時折姿を見せる春の陽気も長続きはせず、日が落ちれば暖房器具のお世話になることも…
 暦の上では「春の到来」を告げられるも、そんな実感がわかなくて、暖かさへの期待を裏切られた思いと、それでも自然のことだから仕方がない、と言い聞かせる思いが、花冷えという言葉には含まれているようです。
 でも、いつまでも冬であり続けるわけがありません。ここへきて、急速に春の気配に変わってきたようです。満開に咲き誇る桜に気持ちを合わせても、もう大丈夫なようです。
 老子の言葉に「天網恢々(てんもうかいかい)疏(そ)にして漏らさず」というのがあります。大ざっぱに言えば「天の網は広くゆったりとしていて目は粗いけれど、何一つ見落としたりしていないよ」とでもなるでしょう。どんな良いことだって、どんな悪いことだって、天はみんなお見通しだよ、と言っています。いつまでも悪いことばかりがまかり通り続けるわけがありません。 
 新年度に合わせるかのように、春の彩りがいろんな場所で見られるようになり、これからもっと溢れてくることでしょう。笑顔の溢れる館内で、みなさんの健やかな成長のお手伝いをしていきます。よろしくお願い致します。

 

2009年3月

■今日もいい日

 

 元気いっぱい、イキイキ、笑顔、小さな奇跡、そして今日もいい日、これらは、注目して時折のぞくサイトの一つに、連日のように散りばめられている言葉です。みんな響きのいい言葉です。いやな気持ちになることはありません。ただ、あまりプラス発想の言葉を差し出され過ぎると、マントラのようで、少し敬遠したくもなり、最近はあまりのぞいていませんでした。
 この方(女性の経営者)のインタビューが、ある雑誌に載っていて目に入りました。ちょっと「あっ、そうか」ということがありました。それは、この人は意図的に負の言葉を使っていないんだ、ということです。負の現象に焦点を当てるとどんどん巻き込まれてしまう、そのことをご自身の体験や、独自の嗅覚から得られたのでしょう。こちらの思慮が浅かったようです。
 たしかに、笑っている子どもさんたちに無理に深刻な顔のしかたを伝える必要はないでしょう。むしろガハハと笑って今を乗り越えていく力をつけるお手伝いをしていけばいいのだろうと思います。もちろん先生だって、これからどんどん活動していきますよ。
 また桜の咲く時期を迎えるにあたって、青葉学習館を支えていただき、つながっているすべての人に感謝します。青葉の階段を元気よく駆け上がってくる生徒のみなさんと、また教室でお会いしましょう。よろしくお願い致します。

 

2009年2月

■グッバイ・シャドウ

 

 つらいこと、憤りを感じることがいろいろと起こります。身近な所でも、テレビの向こうでも連日のように目にすることが多い気がします。「○○社が悪い!」「△△君のせいだ!」と、批判の対象を探すには事欠きません。ブラウン管の中では、専門の人たちが堂々とした口調で、世の中の理不尽なことを一刀両断、バッサリと切り捨てます。たしかに痛快です。
 ところが、批判の対象がいなくなった途端、不安定になってしまいます。「逮捕されました」「除名されました」あるいは「欠席するようになりました」なんていうのも…。批判という行為ができなくなってしまうのです。それは、時に相手を低く評価することで、相対的に自分を高く表現している場合もあるでしょう。例えば相手が悪なら、自分は正義とか…。
 以前にも書きましたが、心理学者ユングは自分のイヤな部分を「シャドウ」と呼び、それを他人の姿に見ることを「シャドウの投影」と呼びました。シャドウ、つまり「影」を叩いている限り、実態はそこにはありませんから、傷つくのは「投影された人」であって、シャドウはピンピンです。動けば、また別の人に投影されるだけなのです。
 なにやら、難しいことのようですが、要は自分の欠点もちゃんと受け入れ、みんな仲良くしましょうということです。ああ、身も蓋もない。

 

2009年1月

■焼け野から発芽する

 

 オーストラリアに自生する植物に、バンクシアという名前のあまり背の高くない木があります。乾燥しているこの大陸では山火事がよく発生するそうで、火事が治まった後、森は焼け野と化してしまいます。
 その荒れ果てた大地の様は、見る者に無力感を与える光景かもしれません。長い年月をかけて幹を少しずつのばし、枝に青々と葉を茂らし花を咲かせ、実を実らせてきた森の木々が、ほんの一時の間にその姿をなくしてしまいます。
 生命の鼓動が感じられなくなってしまったその空間の中では、実は生命の息吹は消されることなく、地表から芽吹く準備を着々と始めているそうなのです。バンクシアの実は固い殻に覆われていて、山火事のような大きな熱の力によってはじけて種が地表へ散らばっていきます。焼け野の中から発芽するバンクシアは、また長い年月をかけて木々へと成長していきます。
 山火事のような、多くのものの命脈を脅かしかねない出来事が頻繁に起こり始めています。耳を塞ぎたくなるこれらの出来事は、様々な人たちへ無力感を与えているかもしれません。
 でも…、でもです。私たちの身のまわりにも「バンクシアの実」は、はじけているはずです。当館の中にも新しい生命を芽吹かせる種が飛んできています。生徒の皆さんが「発芽」して青々とした「木々」になるよう望むばかりです。

クョスコニョ    [1] 
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