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グリーン・メイト「巻末雑感」−バックナンバー・セレクション−

 

「巻末雑感」の以前のものから、今でも読んでいただけそうなものを、いくつか選んで載せてみました。

 

 

 

  2010年
 

2010年12月

■人の評価

 

 人の評価はあてになりません。自分では頑張っているな、と思っているときに、「もっと頑張らないと…」なんて言われたりでもしたらガックリです。気持ちのバランスが揺れたりします。
 また、逆もそうです。大して頑張ったつもりがないのに「よく頑張っているね…」と声をかけられると、実感はなくても悪い気はしませんが、周りの人は「なんであの人が?」とちょっぴり拗ねるかもしれません。
 いずれにしても仕方ありません。人の評価はあてにならないのですから。一説では、人は自分が思う百分の一ほどしか他人には関心を持っていないそうです。それならば、それを「自分とは?」を考える基準にするのは、あまり得策ではないように思えます。外の評価に合わせて行動すると、自分の中から「疲れた〜」という声が出てこないでしょうか。
 そうは言ってもなかなかできません。もっと楽にできたらな、と思いながらも目は外に向くのです。ましてや入試間近のみなさんに人の評価を気にするなと言っても、入試そのものに評価がくっついてきます。でも、今月2頁(*当サイトではこちら)に示したデータは「それだけでもありませんよ」という制度を紹介したかったのです。
 でも世の中には、1万人が否定しても、ちゃんと自分を評価してくれる人が必ずいると思っています。もうすぐサンタさんの季節です。

 

2010年11月

■判断の拠り所

 

 テレビや新聞では、なかなかすべてのことを知ることができません。なかなかすべては伝えられませんし、どうしても限られた情報が繰り返し伝えられる傾向がうかがえます。
 人は日々いろんな判断をしていますが、どうしてもこうした情報を拠り所に行いがちです。もちろん、それを非難するわけではありませんが、限られた情報の中では、判断も限られたものになりがちです。それでも、同じ情報を共有する多くの人たちが、周りで同じような考えを示せば、「みんな言ってる」と何らかの安心感も持って過ごすこともできます。
 表に出される情報がすべてではないことを実感する出来事もボチボチ起こり始めています。知らなくて済むことなら、それでも構いませんが、もしそうでなければどうでしょうか?
 実は、これは入試の世界にも大きく関わっています。生徒さんや保護者の方たちには、なかなかすべての情報は伝わりません。やはり限られた情報が繰り返し伝えられがちです。進路決定も、どうしてもこうした情報を拠り所に行いがちです。その結果も推して知るべしです。それでもこの分野にも表に出される情報がすべてではないことに多くの人が気づき始めました。
 当館では、偏りのない情報をできるだけお伝えしようと思います。そのことが、生徒さんのより良い進路決定につながると考えています。

 

2010年10月

■密かに気づき始めたこと

 

 時節柄、いろんな学校が来年の入試に向けて説明会を行っています。それぞれの会場でお仲間の先生と顔を合わせますが、話題となるのはやはり「受験生はどんな様子?」といった内容です。それぞれ地域は違っても、生徒さんには共通した傾向がうかがえます。
 それは「志望動機の希薄化」という現象です。どうしてその学校を選ぶのか、積極的な志望動機がなかなか引き出せません。それに変わって学校を選ぶ理由には、例えば「校舎がきれい」とか「制服がかわいい」といった類が堂々と挙がります。ちょうどファストフード店のセットメニューを注文する気軽な感覚が、各地域の一部で進路選択に通用し始めているようです。
 この現象の善し悪しを申し上げるつもりはありませんが、事実として表面的な進路選択が広がりつつあります。この傾向に各学校が密かに気づいているとすればどうでしょうか。きっと表面的な印象向上にもっと意識を向けるでしょう。見学に来た生徒さんにランチを無料提供なんてしたらどうでしょう?悪くはないですね。こうした「印象操作」は大人の世界でも日常的にで行われています。(言いたくないけど…)
 でも、そのことにも気づき始めた生徒さんがいます。彼らは相手の意図には簡単には乗っかりません。自分の目で確かめて自分の意思を大切にします。自分の3年間ですからね。

 

2010年9月

■悪口を言わない

 

 不平・不満・愚痴・文句に言い訳。それから悪口。こうした類は日常生活の中につい蔓延しがちです。自分としては、15年前のある方との出会いをきっかけに、その弊害に気づかされ、そして12年前からは実際に一切それらとは縁のない生活を送っておられる人を間近に見るに到って、少しでも同じような境地に近づきたいと考えています。
 でも、なかなか簡単ではありません。それを実践しておられる人たちと自分とでは、心境にまだ随分と違いがあるように思われるのです。きっと、その人たちは「我慢をしている」などとは少しも考えておられないのでしょう。「そんなことをしたら、結局は自分にだって何も良いことはない」くらいまでは、経験からも理解できるのですが、ちょっと違います。もっと高いレベルで理解され実践されているようなのです。この人たちは、たとえ自分が誹謗中傷され軽く扱われたとしても、それをもう不平や愚痴や悪口などの対象とは受けとめていません。
 そんな心境に到るまでに、幾多の悲しみも経験されているでしょうに、その悲しみを笑顔に変えて人と接する、すると自ずと周りにも笑顔が広がり明るい場ができてきます。一朝一夕にはたどり着けない心持ちかもしれませんが、それでも、できるだけ同じような心境に近づきたいと、未熟さを実感しながら思ったのでした。

 

2010年8月

■ちょっと気持ちが楽になる話

 

 連日猛暑が続いています。体力も思考も奪われがちで、なかなか予定通り事が進まない、という人もいるかもしれません。まずは体調を壊さないよう、みんなで気をつけていきましょう。
 それでも、実際にはそれぞれの人がいろいろな事を背中に背負っています。子どもだろうと大人だろうと、です。そして、背負いきれないと感じると、人はイライラしてみたり、他のことで紛らわしてみたり、時には自分の不甲斐なさに自分のことが嫌いになってみたり、と自分を幸せにすることとは、あまり近くない行動を取りがちです。
 ある方から聞いた話が耳に残っています。海が荒れていると、海の底の様子は見えません。でも海が穏やかで澄んでいれば、海の底まではっきりと見えます。たとえそこに泥が積もっていたとしても、海面が穏やかだから見えたのです。こんな内容です。
 この話、「海」を「心」に置き換えて考えれば分かりやすいのでしょう。自分のイヤな所が目につくのも、自分の心を澄まして、奥の方まで眺めているからできることで、そのことは決して非難されることでもなければ、直すべきことでもない、むしろ正常な状態、と言われればちょっと気が楽になります。
 暑い夏はもうじき過ぎていきます。少し気を楽にして、実りの秋を迎えたいものですね。

 

2010年7月

■「疲れ」の正体

 

 ゲーム好きの人は疲れません。長時間ゲームを続けたって疲れを感じません。好きなことをやっているから、もっとやりたいと考えます。(ただ、やりすぎて体調を壊す事例も見ていますから、もちろん勧めているのではありません。…)
 ところが同じ時間、計算ドリルや漢字ドリルをやるとなると、話が違ってきます。時間に比例して疲れがたまってくると感じる人もいるでしょう。「好きなことではないから」、ということになるのかもしれません。一方で「ドリルの反復学習は苦にならない」、という人もいますし、「ドリルは苦手だけど、じっくり解く問題はいやじゃない」、という人もいます。
 人それぞれですが、どうやら人は好きでないことをすると疲れを感じるようです。その「好きなこと」も人それぞれによって違いますから、すべての人を疲れさせること、というのも存在しないことになります。
 それと、もう一つです。最近読んだ本の中に「一番疲れるのは、暇な時」という言葉を見つけました。疲れの元が「やることがない」あるいは「やることが見つからない」というのですが、「怠けている」とも違う感覚、ちょっと分かる気がします。こんな時に、ちょっとだけ力を出して「本当に好きなもの」を真剣に考えてみると、実は「嫌い」と思っていたものの中にだって見つけられるのかもしれません。

 

2010年6月

■ホッとした予想外の答

 

 しばしばテレビや新聞で目にするアンケート調査の中のひとつに「次の首相には誰がふさわしいですか?」というものがあります。生徒のみなさんもご存じの人の名前がいくつも挙げられていますが、その中に混じって「誰がやっても同じ」という回答が上位でよく登場してきます。
 将来への閉塞感を連想させがちな、この選択が上位に挙げられることは、ちょっと寂しい気がします。高校生より若い人たちが同じ思いにならなければ、と余計なことも考えたりしますが、かと言って、異論を差しはさんでどうこうすることでもないのだろうと思います。
 ただ、この「誰がやっても同じ」ですが、実は何通りか違った考えがあるようで、その中の1つにこんなのがあります。それは「最も簡単な回答方法」とでも言えばいいのでしょうか、つまり回答しやすいのです。この回答法は、「どうしてそう考えるのですか?」と追加の質問につながりにくく、その場で完結してしまいがちです。乱暴に言えば、この回答は「楽」です。
 ウェブ上で面白いアンケート結果を見つけました。同じ質問なのですが、何人かの名前が列記された選択項目の一番下に、遊び心からか「もう自分がやるしかない」というのがありました。ちょっと興味が湧いて結果をのぞくと、何とこの回答が3位にランクされていました。予想外の結果でしたが、何故かホッとしたのでした。

 

2010年5月

■ツバメの巣作り

 

 春先の寒さもあってか、今年のツバメ前線の北上は遅かったようです。この頃になってツバメの鳴き声をよく耳にするようになりました。南から渡ってきたツバメたちが近くの民家に巣作りを始めました。せっせせっせと辺りを飛び回っています。その様子を見ていると、思わず表情がゆるんでしまいます。
 ところで、よく考えてみると不思議です。こんな人目につきやすい所に巣を作る鳥って他にいるでしょうか?ちょっと思いつきません。全長わずか20p足らずのツバメが人間を恐れていないとも考えられません。どうしてでしょう。
 それは、どうやらこういうことのようです。人間を恐れるのはツバメだけではありません。カラスやヘビなど、他の動物だって人間を警戒しています。人の出入りする場所にはむやみには近寄りません。つまり、ツバメは卵やヒナを他の動物の攻撃から守るために、あえて人間の懐に飛び込んで巣を作っていて、知らぬ間に人間を味方につけているのです。長年の間に培われたツバメの智恵です。
 中国の古典『荘子』の中でも、ツバメの危険を避ける智恵が寓話として描かれています。まったく余談ながらこの話、日本の江戸時代の文献『田舎荘子』の中では、ツバメが鳩に置き換わって、何故人間のそばにいるのかを鳩が雉に語るという話になっています。

 

2010年4月

■個の力

 

 当館は、ときおり同業のお仲間の先生たちと集まります。学校を訪問するときには、校長先生や教頭先生がお相手をして下さいます。また、時には著名な方が講師として当館にお越しになることもあります。当館の規模には「不似合いな」充実した内容の集まりがずっと続いています。
 自慢話をしたいのでしょうか?そうではありません。個の力なんて知れています。ましてや青葉の館長の力量なんて、たかが知れたものです。校長先生にお会いいただけるのも、著名な方にお越しいただけるのも、お仲間の先生方の存在によるものです。厚みが増しているのです。
 それを勘違いして「オレの力」なんて思おうものなら、先の集まりなどたちどころに解消してしまうにちがいありません。周りの力が加わって、はじめて成し得ていることがたくさんあるようなのに、あたかも一人の力で成し得てると錯覚に陥ることだけはすまいと肝に銘じている次第です。
 今月より希望した学校の校門をくぐる生徒の中にも、「無理だから…」と相当制止を求められた人もいます。でも、「無理」は今、「現実」になっています。何故でしょう?…先生の力なんて言うはずがありません。共に頑張る仲間や理解してくれる保護者の方、それらが厚みを増して当館でドラマが生まれました。すべてが組み合わさって青葉学習館だと思っています。

 

2010年3月

■「幻」が消えるまで

 

 2月には暖かい日が何日かありました。まるで桜が咲く頃のような陽気で、その陽気は春の訪れを思わせ、身も心も春の装いへと誘い、そのまま一気に春になるのではと思わせるほどでした。
 ところが、春の装いを演じる2月の空気は、次の瞬間には一転して表情を変え、再び北風を呼び戻しました。春の装いの中へ冷たい空気が入り込んできて、また冬の装いを必要とする寒気が周りを包みました。そう、春はまだ来てはいませんでした。あたかも「春の幻」を見ていたかのようで、たとえまた幻が現れようと、陽気に心を許すことなく警戒する心が働きます。
 3月になっても、暖かい日が訪れて、またそのあと寒さを感じる日が戻ってくる、そんな繰り返しが何度かあるのかもしれません。春の訪れを告げる声があちこちに聞こえ始めてきても、春の仮面をかぶった北の風の残映をなかなか振り切ることができません。仮面の後ろから、また冬に揺り戻す凍てつく表情が現れるのかも、と思ってしまうかもしれません。
 南の海上では、暖気団がそろそろ北上の準備にかかっています。「いつでも行けるよ」とばかりにスタンバイしています。もう幻に怯える必要はありません。たとえ北の空気が居座ろうとも、冬を演じようとも次第にそちらが「幻」と映ってきます。みなさんに本当の春がやって来るのはもうすぐです。

 

2010年2月

■「糧(かて)」を得る方法

 

 中国のことわざに、次のようなものがあります。
 ある人に魚を一匹与えれば、その人は一日食べられる。魚の取り方を教えれば、その人は一生を通して食べられる。
 このことわざの言わんとするところはお分かりかと思います。生きていくためには、食べ物が必要です。そして、それを提供していく限りには、その人は生きていくのに何も支障はないことでしょう。
 ところが、実際には生涯にわたってずっと食べ物を提供するという行為はできそうにありません。だから、自らが食べ物を手に入れる、あるいは食べ物を育てる方法というものを、子孫へと伝えていきます。そうすることで、その人が生きていくのに支障となることを自ら取り除く術を身に付けていくこととなります。
 省みて、学習塾を含めて教育はどっちなのかと考えます。生徒のみなさんに「魚」を提供しているのでしょうか、それとも「魚の取り方」を提供しているのでしょうか。最初は「魚」そのものを提供しなければならない時期が必要なことは確かでしょう。ならば、いつかは「魚の取り方」の提供が必要となるもの確かでしょう。
 現在、次の進路を自ら開いていくために、つらいと感じる時期を過ごしている人もいることでしょう。でも、まさに今は「魚の取り方」を身に付ける時期にもなっているようなのです。

 

2010年1月

200万通り以上の選択

 

 鳥は空を自由に飛び回ることができますが、泳ぐことはできません。魚は水の中を悠々と泳ぎ回ることはできますが、空を飛ぶことができません。そして、人間は空を飛び回ることも、水の中を泳ぎ回ることもできません。それでも、地球の上で一番優れた生物であるかのように振る舞い毎日を過ごしています。
 地球上には、わかっているだけでも200万種以上の生物がいると言われ、実際にはその何十倍、何百倍もの生物種が存在しているようなのです。考えてみると不思議です。同じ星の上にいて、同じ成分の大気につつまれ、同じ成分の鉱物からなる大地の上で生命活動を営んでいるのに、あるものは骨を持たず海の中に暮らし、あるものは、体全体を硬い骨で覆い木の上で暮らします。そして骨を体内に内蔵して空を生活の場とする生物などと、全く違った「生き方」が少なくとも地球上には200万通り以上はあることになります。
 それぞれの形態が、この星の環境に適応するために形成されたものです。それぞれの形態を選択した生物は、長い年月をかけてその形態を子孫へ受け継いできています。すべての「生き方」が「正解」だった証です。
 これら無数の生物種の中の一種類にだって、無数の生き方の選択が用意されていそうです。そう考えると気が楽になりませんか。

 

クョスコニョ    [1] 
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