Home Search SiteMap E-Mail Admin Page
●青葉学習館のご案内   ●今「教育事情」は? ●グリーン・メイトから ●ちょっと休憩室で… ●身近なQ&A ●お問い合わせ等は…
    「ことばのぎもん」から
    「巻末雑感」から
        バックナンバー・セレクション
    ある少年の残した伝言〜
サイトマップへ
 主な更新(最新6/5) 
●「巻末雑感」…………    追加更新しました
●「ことばのぎもん」…    追加更新しました
●気になる教育事情から   追加更新しました
●「ちょっと休憩室で」  追加更新しました
●「身近なQ&A」……  追加更新しました
目的ページへ直行@
目的ページへ直行A
目的ページへ直行B
 今知りたいデータ
●新指導要領に関して…
●検証・2学期制の導入
●小中学生の漢字力は…
●食事と学習の関係は…
特集/成績に関すること
検証/内申点の影響力
 良識ある教育サイト
●井上教室(佐伯区)/さりげない記事の中に、教育のツボが満載されています
 学校へ行けない人へ
●こちらからどうぞ
ある少年の残したメッセージから

グリーン・メイト「巻末雑感」−バックナンバー・セレクション−

 

「巻末雑感」の以前のものから、今でも読んでいただけそうなものを、いくつか選んで載せてみました。

 

 

 

  2011年
 

 

2011年12月

■内側にあるもの

 

 滅多にはないことなのですが、授業などで、自分が話をしていながら勝手に口が動き、次から次へと言葉が自然と出てくる感覚になるときがあります。そんな時は話はよどみなく進み、話している内容も結構まともであったりします。時には、こんな言い回しは普段の自分なら使わないのに、何故か自分の口から出たその言葉が、妙に話の流れに適している、なんてこともあります。
 書き言葉になれば、このような体験はもっと少なくなります。何も思わずともペンが勝手に動いてくれて、文がスラスラと書ける、いつもそうであれば楽なのですが、そんなことは年に一度あるかないかです。そんな時に書き上げる文章は、やはり普段の練りに練った駄文よりもはるかにまともです。これも普段の自分の文体とはちょっと違う部分が表れて、文の流れを整えています。たまにある不思議な感覚です。
 普段から追われるような感覚になりがちな世相です。日々の生活をこなすのに、外からの情報を取り込むことが生活の中心にさえなっている感があります。情報を使いこなすことはいいことなのでしょうが、自分の糧となるものはすべて自分の外側にある、というのが前提です。
 ひょっとしたら誰も内側に、外側にもないような情報の貯蔵庫を持っているのかもしれません。そう思うと、ちょっとワクワクしますね。

 

2011年11月

■対偶(○○でなければ…)

 

 高1の数学に「AならばBである」が正しいかどうかを調べる単元があります。たとえば「正三角形ならば3つの辺(の長さ)が等しい」は正しく、真と言います。また「2+3ならば6である」は間違いで、偽と言います。
 この「AならばBである」を命題と呼ぶとき、「BでないならばAではない」という言い方があります。これは対偶と呼ばれます。先の正三角形の命題で考えれば、それは「3つの辺が等しくないならば、それは正三角形ではない」となります。面白いのは、それが正しいかといえばやはり真です。元の命題と対偶は、真と偽が必ず一致することが確かめられています。つまり、2つは同じことを言い方を変えて言っているに過ぎないとも言えましょう。
 ところでこの対偶ですが、日常でも使われているのにお気づきでしょうか。お子さんとの関りで「勉強しなければ、何も買ってあげない」、立派な対偶的用法です。では、元の命題はどうなるでしょう…「何かを買ってあげるから、勉強しよう」くらいになるでしょう。あまり深入りは致しませんが、真偽は一致しますから、どちらも正しいか、間違いかのいずれかです。
 さらに上の対偶の「Bではない」のところを「どこにも行けない」に変えてみます。元の命題が偽であることが分かります。入試の季節を迎えて、当館は現実的な対応をして参ります。

 

2011年10月

■便箋と向き合う機会

 

 最近、手書きでお便りを出す機会が少なくなってきました。手書きのお便りはじっくりと便箋と向き合って、ペンを片手に相手のことを思い浮かべながら、少しずつ紙面を文章で埋めていきます。時には誤字ではないかと辞書で確認しながら書き進め、手間暇をかけて書き終え、ポストに投函します。そんな機会が減ってきました。
 それと入れ替わるかのように、メール等の通信手段を利用する機会が増えてきました。とにかく早いです。切手を貼らなくても、瞬時にお便りが相手に届きます。20年前には驚きのこの事実も、今では驚くことの方が驚かれるほど日常の生活に浸透しきっています。
 送られる文面も、お便りというよりは文字を使った日常会話へと変容してきているように感じます。日常会話なら、話しかけられればその場で返事をするように、着信すれば直ぐさま返信を迫られる、そう感じられることも多くなってきました。紙のお便りの何百倍・何千倍のスピードで、電子のお便りが回線の中を目まぐるしく行き来します。そこで互いに「私はここにいます」と送信をしているようにも映ります。
 総務省の資料によれば、郵便物の総引受数が2004年に236億通あったものが、2010年には198億通と減少しています。じっくりと便箋と向き合う機会が日本中で減ってきているようです。改めて意識してみたいと思った次第です。

 

2011年9月

■人より一歩先へ…の先

 

 スーパーのレジで目にした光景です。その時は込んでいて、どのレジにも人が並んでいました。しばらく並んでいると、一人の店員さんがやってきて、もう一つレジを開けてくれました。
 「こちらへどうぞ」と、前に並んでいたお客さんに声をかけ、その方もレジを移ろうとしました。その時に、どこにおられたのか分かりませんが、別のお客さんが滑り込むようにして現れ、レジの一番乗りを手にされたのでした。
 あまりの素早さに一瞬何が起こったのか状況の整理がつかず、前に並んでいた方も機を逸して、レジを移れないままになってしまいました。一番乗りのその人は、何もなかったようにレジを済ませ、急ぐ風でもなくゆっくりと店の外へ出て行かれました。譲り合う、とは程遠い光景です。でもこの方を非難する意図はありません。
 大震災以降、譲り合いの機運が高まっている中、一方で熾烈な競い合いも強いられます。そこでは競り勝ち、人より一歩先を進むことが是とされますが、そのためには、誰かに自分の後へ廻ってもらうことが必要です。そもそも譲り合いとは相容れないのですが、風潮として両方を同時に求められがちです。
 想像ですが、レジへ滑り込むのは一番になってひとまず安堵したい、という心理なのかもしれません。ただ、この安堵は一瞬です。惑わされず、本当の安堵を実感したいと思います。

 

2011年8月

■「検査済み」のフレーズ

 

 言葉には、知らず知らずその有効性を確かめてから使われているものがあるようです。例えば「がんばります!」。よくスポーツ選手などがインタビューで使用します。がんばると言われて、何か反論をしようとするのは難しいことです。
 それを知ってか、受験を控えた生徒たちも進路の話になると「がんばります!」を多用します。がんばると言ってるんだから、批判される筋合いはないだろう、という理論展開です。もちろん、当館でそれが通用しないことは生徒のみなさんがよくご存じのことでしょう。それはさておいても、社会一般で受け入れられやすい言葉がいくつも存在しています。
 その中で「元気をもらう・与える」であったり、あるいは「少しでも役に立ちたい」など、広く市民権を得たと思われる言葉が、最近相当飛び交っています。思わずどこかで使っていそうです。「心を磨く」などもポイントが高そうですが、いずれも批判の入る余地のないフレーズです。それを使う人が知らず知らず意識しているのでは、と穿った見方がよぎります。
 これら「受け入れられやすい」フレーズには共通点が見つけられます。それは発した言葉の内容が実証できないこと、あるいはそれを前提としていないということです。元気も心も見えないのです。とすれば、その言葉を発する人の意識が大事ということになりそうです。

 

2011年7月

■日本人らしさ

 

 東日本大震災以降、被災者の様子を伝える報道は、今も続いています。報道を目にした海外の人たちは、大いに日本人を賞賛しました。「何で日本では災害につきものの暴動や略奪が起きないんだ?」と。
 被災して心身共にボロボロの方たちが、少ない食料の配給を求めて整然と列を作り、不自由に避難所で、不満を声高に主張することもなく秩序だって生活する、海外の人にしてみれば、あり得ない光景として映っているようです。また、発災直後鉄道が止まり、帰宅難民となった人たちが、駅などで通路の妨げにならないように休む姿にも「日本人って何なんだ?」と驚嘆の混じった思いで、私たち日本人を敬意の目で見直している海外の人が増えているようです。
 これら賞賛混じりの声は、ありがたいことではありますが、あるなしに因らず被災地の方たちは変わりません。困っていれば、お互い助け合う生活を坦々と続けられ、賞賛を求める心持ちの入る余地など微塵もなく、ましてや自らを正当づけるような言葉を加えるでもなく無心に助け合う、それが自然にできるのが日本人だと言えるのかもしれません。
 いろいろな形で支援活動が行われています。支え合いの心が根っこにありますが、それは西洋風の過度な主張とは馴染まないものかもしれません。陰徳という言葉も日本にはあります。

 

2011年6月

■天命に遊ぶ

 

 最近ある政治家がアメリカの新聞のインタビューを受け、心境を語ったときに使われた言葉です。ちょっと耳に残る言葉です。ただ、その心境を察するには、どうにも私自身の見識が足りないように思われるのですが、浅いながらに少しだけ触れてみます。
 日常の生活の中で、身のまわりに起こる出来事が自分の望むことと100%一致するということは、ほとんど経験することのできないことでしょう。何かしらのズレがあって、そこには何かしっくりとしない思いが生じがちです。そこに、しっくりといく気持ちを作り出すには2つの方法が考えられます。
 1つは、自分の望む状況に周りを変えることです。そのためには、様々なエネルギーが必要なことは容易に想像できます。外部との摩擦や対立を好まない人にとっては苦痛が伴います。
 もう1つは、周りの状況は自分にとって望ましいと思考を変えること。必要あって周りの出来事は起こっているのだ、と理解し直すわけです。この場合、納得しているようで心の奥は納得していない、ということも起こりがちです。
 「天命に遊ぶ」ですが、上記のいずれでもなさそうです。それは双方経験した後に達する、もう少し奥にある心境のように思われます。自分を「遊ばせる」のです。やはり、この程度の解釈が限界です。紙面が切れてしまいました。

 

2011年5月

■反比例

 

 ご存じのように、この4月から小学校の教科書が変わりました。各教科とも分厚くなり、学習内容が大幅に増量されます。一例ですが、算数では「反比例」がほぼ10年ぶりに復活となります。
 y=決まった数×xの式で表せるあれです。例えば、長方形の縦をx、横をyとして決まった数を面積とすれば分かりやすいかもしれません。縦横ともに10でも、縦が50で横が2でも面積は決まって100です。この分野が久しぶりに教科書に戻ってきます。
 話が変わりますが、技術の発達は日々進んでいます。コンピュータでも家電でも、進化を遂げる度に人はその恩恵を受けて労力を減らしてきました。何もしなくても機械が代わりにやってくれます。技術の発達に伴って、人は自らが動く量を減らしてきました。機械がやるか人がやるかの違いはあれ、総量は決まっています。ふと、「これって反比例?」と思うのでした。
 総量(積)が100で技術が20なら人は5です。これが技術が1000なら人は0.1で済みます。しかもそれを足せば、和は一見220から1000.1へと急増し、あたかも自分が「すごい!」と感じてしまいがちです。
 技術進化の恩恵を受ける多数の人は、労力の減少のみならず、思考も減少の「恩恵」を受けていることでしょう。ここにきて、反比例をもう一度学ぶ意味はあるような気もしています。

 

2011年4月

■雑感

 

 ついひと月前には想像もつかなかった災害が東日本一帯で起こりました。遠く離れた一学習塾が軽々に触れられる話題とは思ってはいないのですが、少しだけ触れることを許していただきたく思います。
 現地の実状は、テレビの映像等では伝わっていないことがほとんどのようですし、現地に足を運んだこともないまま、自らの体験として理解することは物理的にできないことです。ですから、せめて分かったようなつもりになって、表面的に「頑張って!」と激励するような姿勢は控えたいと考えています。
 そのような中で、最近少し感じることがあります。それは、適切な表現ではないことも許していただきたいのですが、今回の災害を機に、少なからぬ人の意識が変わってきているのではないか、ということです。下手な解釈は避けたいのですが、それは「自分だけ」という意識と対極のものであったり、自分の意識と思っていたものを一枚めくると、「本物」がそこにあってスイッチが入ってしまった、そんな感じです。
 とりわけ若い人たちには、本来自らが持っていたものを前面に出して、いろんなエネルギーを人のために注いでいる、そのような姿が感じられます。
 当館の生徒さんも相当エネルギーを持っていることでしょう。そんな思いで接していきます。

 

2011年3月

■アナログ

 

 受験シーズンが終盤にさしかかっています。そんな折、大学入試では携帯電話を利用した不正入試が発覚し、連日報道されています。このデジタル技術を駆使しての不正行為は、多くの人たちの注目を集め、いろんな所で議論の対象となっています。
 そもそも「デジタル」という用語ですが、辞書を引けば「データなどを数字で表現すること」と書いてあります。分かったような分からないような気もしますが、ここでは「自然のものを人工のものに置き換えて、効率よく処理すること」くらいに理解しておきます。
 わずか手のひらに入る小さなデジタル機器の操作で、求める情報が瞬時に手に入ります。そこがデジタルの魅力なのでしょうが、ちょっと疑問がわいてきました。こんな疑問です。「送信された入試問題はデジタル機器が解いたのでしょうか?」いや、実際にはデジタル画面上の問題を見た別の人が自分の脳を使って解いて返信していました。デジタル通信のたどり着いた先はアナログだったのです。
 「アナログ」も辞書で引いてみました。「情報を物理的に連続する量で表現する方法」と…。これもよく分かりませんが、分からなくたっていいです。これから入試に臨まれる青葉の生徒さんは「アナログ」で、そして自然体で頑張ってきてもらいたいと願っています。

 

2011年2月

■風が運んでいくもの

 

 1月は思いの外寒い日が続きました。吹き付ける冷たい風は、容赦なく私たちから暖かさを奪い運び去っていきました。冬の風は、他にもいろいろなものを運び去っていくようです。
 きのうの給食のおかずに大好物が出てきました。食べ終わると満足です。ちょっといい気分にもなったりします。でも、次の日には何を食べたかなかなか思い出せません。テレビの画面の中では、火山の噴火の映像に心を痛ませるも、その5分後には、バラエティー番組に興じます。アジアカップ優勝の感動を連日伝えた同じ画面の中では、今は何故か連日お相撲さんの映像ばかり目にします。さっき見た映像があっという間に過去のこととなり、あっという間に記憶から薄れていきます。まるで、窓の外を吹き抜ける冬の風が温もりといっしょにそれらの記憶を運んでいったかのようにも思えます。
 寒い日々はもうしばらく続きます。2月の風に心も縮こまらせながら、ただひたすら春を待ちわびています。「春はもうすぐ」の声が聞こえてくるも、春の背中はまだ遥か彼方にしか感じられません。時には、入試の問題に日々向き合う自分の姿に悲壮感さえ感じます。
 3月の風がそろそろ待機し始めました。その役割は冬のそれとは違って、寒さといっしょに「悲しい記憶」も運んでいくようです。桜の咲く頃に、悲しい記憶は消えているようですね。

 

2011年1月

■たしかなもの

 

 今年はどんな年になるでしょうか。煽るまでもなく、近年は世の中いろいろな分野で激変が起こっています。不確かを感じることの多い中、多くの人たちは拠り所を求めて「たしかなもの」を手にしようとしているようにも映ります。そして、それは進路の選択や就職活動といった分野でも同じようです。何か「たしかなもの」へ近づこうとしているようです。
 ところで、この「たしかなもの」はどこにあるのでしょうか。テレビや新聞、そしてインターネットの中では、様々な道先案内が確信めいた口調、論調で数知れず行き先を告げてくれます。そうしたナビゲーションに沿って、幾人もの人たちは旗をかざしながら堅牢な城のような「たしかなもの」を目指して行きました。でも、その中のいくつかに、企業であれ国であれ、砂の如く崩れるシーンを目にすることになったのは近年のことです。そんな中、多くの人は自らのセンサーの感度をさらに上げていきました。
 道に落ちていた石を手で取りました。これで躓くことはありません。満員電車で若い人が3人席を立ちました。これで3人のお年寄りが席に座れます。百人の人が武器を捨てました。これで百人被害者が減ります。「たしかなもの」は、身近なことの積み重ねの中にもっとたくさん見つけることができるような気がします。
 新しい年が良い年となりますように。

クョスコニョ    [1] 
 前のテキスト: 最初の掲示物です。
 次のテキスト: 2010年

青葉学習館 Copyright (C) 2012. All rights reserved.