この部屋へやってくるのにまた時間が空いてしまいました。前回が新年度を迎えた直後であったのに、今は気がついてみるともう夏休みです。いつものことながら書きたいことはあるのです。それでも時が経つのが「あっという間」という月並みな表現では言い表せないような感覚で、まるで時間が加速しているような感じすらします。
一日一日が一瞬の出来事のようで、目を閉じてまた目を開けたら、もう次の日という時の進み具合を感じます。そんな刹那に感じる日々の中にもいろいろな出来事がおこります。希望に胸躍るうれしいことであったり、反対にがっかりしてしまうことであったり、心動かされる感動することであったり、多くの出来事が凝縮されています。
そんな出来事の中にも、この休憩室で書きたいこともいくつかあったのです。でも気がつけば機を逃していました。すでに賞味期限は過ぎています。「偽装表示」とならないよう「心残り」といっしょに過去にそっと置いたままにしておこうと思います。どうか制作者の気ままとお許し下さい。その分、ここでは最近のことをいくつか書いてみようかと思います。
その1.大人物待望論
6〜7月には多くの学校説明会が実施されました。公・私立の学校が学習塾を対象に行う説明会です。年々早期に実施する学校が多くなってきています。その内容をとりあげるつもりではなく、ここで注目するのは各学校の主要なご説明の合間にこぼれるように発せられた言葉にあります。とりわけそれは、いくつかの「進学に力を入れている学校」でお聞きしたご発言と記憶しています。
それぞれの学校が違った表現で言われるのですが、そこにはいくつかの共通している点があります。それは一つには、「生徒たちは、与えられた課題に対してコツコツと真剣に取り組んでいる」ということ。二つ目には、「しかし、自ら課題を求めることが少なく、指示が出るまで待つ」。そして三つ目に、「大きなことにチャレンジする意識が希薄」ということになるようです。
進学へ向けての取り組みと実績数値の提示に聞き慣れている者としては、このような類の内容を耳にすることはあまり予想のしていない、でも「新鮮」なこととして映りました。察するに、学校という枠からの視点ではなく、今の世情に憂うことが多く含まれる中、それに真っ向から立ち向かう若者の出現を望む思い、それも出来うることなら自校からそのような人物が登場することを待望する思いが背景に感じられたのでした。
様々な「数値」を接点として接しがちな学習塾に向けて、関心が高くないかもしれない「教育者の思い」といった内容(書きながら「でも、これって変」とは思うのですが…)を聞かせていただくことは、組織としての学校の血の通った部分を学ぶ機会でもあり、敬意をもって耳を傾ける姿勢が必要ではないかと痛感するのでした。
その一方で、そこから次代を担う人物の出現は容易ではない、とも思うのです。それは既存の制度の疲弊した部分の作りかえを、圧倒的なエネルギーを持って遂行することを求められる人物が、大部分において既定の制度枠に収まっていることを必要とされる環境の中で、その能力を高めていくことは決して簡単なことではないと思われるからです。
進学目標を達成することと、個々の生徒さんが思い描く「立派な自分」のイメージが必ずしも一致しないことを多くの人が感じているかもしれません。10年前と比べても遙かに膨大な情報によって進学後のイメージがつかみやすくなっています。そんな中で、現実対応として「進学先と自分の理想のどちらをまず実現させるか」を判断した場合、圧倒的に進学目標の達成に目が向きそうです。
そして、目標達成のためにどう動くのが効率がいいのかを考えた場合、「指導者の指示に従うのが一番いい」と判断するかもしれません。合否を判断する情報も学校の内外に溢れかえっていますから、「少し厳しい」となれば「類似」の目標をすぐに見つけてきて「志望校変更」を行います。それが自分の奥にある本当の目標と違うという意識があれば、違和感がなく判断することもできるでしょう。ひょっとしたら、高い志を内に秘めながらも、見た目には受動的に見られる行動をとっているように映るのかもしれません。
当館では、生徒さんたちにもこのような話を一通りして、進学校をはじめ様々な学校へ送り出しています。いつか将来を託せるような人材が「青葉で学んだことがある!」と言ってくれるような場面が訪れることを楽しみにしています。
その2.コモンセンス再考
「再考」というのは「巻末雑感」の方で一度採り上げたからです。よろしければこちらの方もご一読下さい。ここでは、もう少し書き加えてみます。
兵庫県在住の方に、とても楽な生き方をされているように見える方がいらっしゃいます。仕事という枠にとらわれない自由な活動をされている方です。ご家族も大切にされ、子どもさんの意志も尊重されているようです。子どもさんもまた学校という枠にとらわれず、健やかに成長をされているようです。その活動は時には海外へ及び、日本との人材の交流に活躍されています。
最近、この方のお父さまがお亡くなりになりました。お父さまにも愛情を注がれ敬意を持って日々過ごされていたこの方は、ご葬儀にも最大限の敬意を持って臨まれ、慣習的なことを最小限にされたそうです。戒名はおつけにならず、ご位牌には生前のお名前を記されたそうです。自然体ということを意識されたお取りはからいだったようです。
これが良いことか悪いことかは分かりません。信仰の厚い方から見れば不謹慎と見られたかもしれません。この方にとっては、周りの方の見方よりも自分の中の感覚を大事にされたということでしょう。それがお父さまをお送りするのに最もふさわしいと判断されたのでしょう。自分の中のコモンセンスを信じて行動されたと言っていいかもしれません。
何が正しくて何が間違いなのか、なかなかそう簡単に区別できないことが世の中にはたくさんあります。人によってあるいは場所によって答が変わるものもあります。一番楽なのは、「既存の常識・慣習の中にも自分の意に通ずるものがあるし、逆にそうした枠の外に納得のいく答を見つけることもある。要は、どれを選択するか自分で判断する力を身につけていればいいんだ。」と思うことでしょう。これがコモンセンスではないかと思います。
私たち人って案外自分の考えで行動しているようで、よそから借りてきた思考で行動していることが多いように思います。大人がそうであれば、子どもさんたちが「レンタル思考」で行動するのも分かるような気がします。(むろん積極的に納得しているわけではないのですが…)そして、そのレンタルを積極的に推奨する最大のツールがテレビではないかと思うのです。
例えばあるニュースにAのコメント、Bのコメントがあり対立します。その次にはどちらが正でどちらが否かで二分論に持ち込まれて選択肢が絞られます。もうそこにはCという意見が入り込む余地がなくなってしまいます。こうしたパターンに慣らされてしまうと、自分の中の判断力を発動させる必要がなくなり、○×クイズの解答のように単純にものごとを考えてしまうことにもなりかねません。
自分の周りの出来事を自分で判断していくということは、決して難しいことではないでしょうし、「自分の判断って、まんざらでもない。」と思ってもいいのではないかと思います。特に若い方たちはそうではないでしょうか。いったん周囲のノイズを取っ払って、穏やかに自分で考えれば大人にはない発想が飛び出てくるのではないかと思います。
ちょっと長くなってきました。とりあえずこのあたりで…
(08.7.21)
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