これは他のページ(「青葉学習館の秘話」の頁)でも触れていることですが、当館の館長は本来トップに立つ器ではありません。どちらかと言えば参謀型の人間です。緻密なプランを立ててお膳立てをしていく、という役割が以前は主でした。それはもう、相当緻密なプランを立案していたと思います。
ひとつのイベントを実施運営する場合、それぞれ担当者ごとのスケジュールを分刻みで計画するのは当たり前のことです。わずかでも空白の時間を作らないよう、必要とあらばたった数分のための補完の動きなども細かに埋め込みます。「ここがポイント」と思う場面には、詳細なメモも添付しておきます。時には不測の事態に備えて、プランAの代案をプランB・プランCくらいまで用意しておきます。とにかく「スキのない計画」という意識が強かったように記憶しています。
会議の場合でもそうです。まず「時間内に収める」という意識が相当強かったようで、想定所要時間の中で処理する案件がいくつあって、個々の案件にかけられる時間が何分程度か概算で設定をしておきます。余計なことですが、長い会議は士気の低下と大きく関係します。ダラダラと長引いてしまうと、もう収めどころがなくなってしまうということも少なくありません。何より非効率です。まあ、この程度のことはビジネス最先端の方たちには初歩的なことでしょう。
それから、個々の案件には細かい想定をしておきます。出席するメンバーが誰で、それぞれがどのような考えを持っているか?そして、総意としてどのような結論に近づきそうか?このあたりを整理して、自分の考えも加えて会議の進み方を頭の中で組み立てます。また、会議は生き物で想定と違う方向へ流れていくことも多々あることを経験から学んでいます。無軌道に進行がそれないため、こんな発言が出たら話題をこちらへ持っていこう(シナリオA)。議論が数人だけの局所戦になったら、あの人に発言を求めよう(シナリオB)。頭の中には、会議の度に新しい「想定問答集」を作っていました。
こんな背景の中で、当時は「仕事というものは、計画した通り物事を進めていくこと」で「結果と計画の一致が100%に近づくほどよい仕事」と本気で考えていました。確かに悪い気はしません。周りの人が自分のプランで動いてくれているのですから。自分の思い描いた通りにシナリオが進んでいくのです。そんなこともあって、相手の立場を察しながらも懸命に結果と計画の一致に向けて力を注いでいました。
この「緻密なシナリオ作り」とそこから得られるものを考えてみると、あることに似ていると気づきます。それは演劇です。広辞苑にはこう記されています。「えんげき【演劇】役者が舞台装置・照明・音楽などに助けられ演出者の指導の下に、脚本によって演技して、観客に見せる総合芸術。」と。自分は優れた演出家・脚本家を目指していたのかもしれないと感じています。当時は、そうすることが自分にはベストと思ってやっていたことですから、無駄なこととは思いません。ただ、今「緻密なシナリオ作りをしたいですか?」と問われれば、即座に「ノー」です。
演劇は、お芝居ですから「仮想」です。どんなに優れた作品であっても、セットの台所には、お母さんが作ったごはんやみそ汁の匂いはしません。机の上には、子どもが流した涙の跡はありません。演劇を行う場所は、やはり「劇場」です。うまくは言えないのですが、そこは人が住まう場所ではありません。
確かに「シナリオ作り」には「応用」を加えると、予想もしなかった場面展開を意図的に創出することも可能です。以前、少しだけ書いたプロレスのことで恐縮ですが例をあげます。今もってプロレスファンの一人ではありますが、この業界やたらと対立の構図を作ります。たいていの団体にはベビー(善玉)とヒール(悪玉)が常に併存しています。しかも、日本人好みの「勧善懲悪」という図式に必ずしも持ち込むわけではありません。ヒールが勢力を維持する時期というのを必ず作ります。そして、気がつくと、ベビー役・ヒール役ともにメンバーが入れ替わっているということも珍しくありません。(あまり詳しくは書けませんが…)
いずれにしても、対立が起こっているところには多くの人たちの関心が集まり、メディアも話題になるので大きく採り上げてくれます。その特性を活かして、仮に本当は仲が悪いわけではないのだけれど、双方同意の下で仲が悪そうに演じている方が、一般の人たちの注目がこちらに集められると判断したらどうでしょう?結果と計画の100%一致を目指して、「対立の構図」から始まるストーリーを緻密に作り上げるシナリオライターが登場しても不思議ではなさそうです。そう言えば、最近ブラウン管の中でもそんなニュースがチラチラ見えているような気がします。
これは感覚的なことですが、緻密なシナリオに携わる方の多くは疲弊していく場合が多いように思えます。スキのない計画を立て続けるわけですから、その完全実施の代償に相当の神経をすり減らして提供することになります。それに、よくシナリオの錬られた演劇作品ならば、題名をつけて公に発表して評価を得ることができるでしょうが、社会の中での緻密なシナリオは、巧妙になればなるほど「ネタばらし」をすると価値が失せてしまうので、なかなか表面には出てきません。コモンセンスとして「自分はいったい何をやっているのだろう?」と自問自答が始まっても不思議ではないでしょう。
よく考えてみると変だと思います。役者さんは演出家・脚本家らの意図に従って演技をします。意のままに動かされているように見えても支配されているわけではありません。演劇を離れると役者さんは演技を解きます。もし、緻密なシナリオが役柄としてではない「意図」された行動を求めるものだとしたら、シナリオの対象者に「支配」を求めるものでもあるでしょう。変というよりも「あぶない」かもしれませんね。
これまで師事してきた梶本洋生先生が生前言われていたことに「過去と人は変えられない。自分と未来は変えられる。よし、これでいこう。」という言葉があります。人にはそれぞれ自分の意志があり、他人の思惑通りに動くはずがない、ということ。その通りだと思います。多大な労力を使って他人を動かすことを考えるなら、まず自分を変えた方がいい、と。大事なことを教えていただいたと思っています。そして、今もこの考えを大切にしています。
(08.9.12)