教科書には載っていないのですが、小学校の算数の範疇に含まれる問題です。中学入試や公務員試験でも出題されています。どんなものか、一題簡単なものを挙げてみます。
<問題>
A・B・Cの3人が100m競走をしました。2人は正しいことを言い、1人はうそをついています。
A「ぼくは1位ではありません。」
B「ぼくが1位です。」
C「ぼくは2位です。」
さて、うそをついているのは誰でしょう?
<考え方>
Aがうそをついているとすると…
→AとBの2人が1位になってしまいます。
Bがうそをついているとすると…
→1位が誰もいなくなってしまいます。
Cがうそをついているとすると…
→「1位B、2位A、3位C」が成立します。
<正解>
Cがうそをついていることになります。
たった3人の短い会話の情報でも、捉え方ひとつで真実に導く大きなヒントとなります。こうした正解にたどり着くまでの考え方の過程を身に付けておくと、正解を求めるのが面白くなってくることもあるでしょう。ただ、算数の問題を離れた日常の中では、めったに使わない思考の過程でもあるようです。たいていの場合、見聞きする情報は何の疑いもなく、そのまますっと受け入れているのではないでしょうか。
朝から、テレビのニュースや新聞に「これは本当だろうか?」などと思いながら見ている方はそんなにいらっしゃらないことでしょう。そんなことしていると、余分にエネルギーを使って疲れそうです。そのまま情報を受け入れた方が楽であることは間違いありません。
上記の問題にもう一度戻ります。A・B・C3人の発言をそのまま受け入れるとどうでしょう。ちょっと考えていただくと、3人の順位が「1位B、2位C、3位A」と結論づけられることがお解りになるでしょう。同じ情報から、2つの異なる事実が想定されるのです。仮に前者が真実であるとするなら、原文そのままの情報の読み取りの方が、残念ながら事実誤認につながっているということになります。
もっとも、最近は「これは本当だろうか?」と思わざるを得ない場面も多々見受けられます。事実の意図的な隠蔽や巧妙なすり替えなど、いやでも意識させられる状況下に置かれているならば、必然的な考え方となるのかもしれません。できることなら、そのような「疑う」ことを前提とした世の中は居心地が良さそうにありませんから、そんなことしないに越したことはないのに決まっています。
もしも、事実と異なることを作為を持って伝える存在があったとしても、それを見抜く目を持っている人が多数になれば、「そんなことしてもダメだよ」と軽く嗜めて何事もなかったかのように日常生活を続けることができます。敵対心を剥き出しにした糾弾を必要としなくなります。推理算から、こんなことを連想したのでした。
このようなことを、小さな塾の人間が声にしたところで、大した影響はないだろうとも自ら自覚するところです。もっと影響力のある人が、分かりやすい言葉で多くの人に語りかけてくれれば、とも思っています。
(11.6.18)