一昨日は、漢字検定の実施日でした。当館でも認定準会場として検定を実施致しました。その運営には近年、より厳正さ・公平さが求められているので、普段にもまして、その取り扱いは慎重になります。とりわけ検定開始から、終了後の答案回収までは気が抜けません。今回の検定では、準2級と3級の受検者の教室の監督を担当したのですが、その時に感じたことです。
検定開始前には確認しておくことが結構あります。注意事項の説明はいつ始めたらいいのか、生年月日は元号で書くのか西暦で書くのか、遅刻してきた人がいたらどうしたらいいのか、…独自で判断してはいけないことがいくつもあります。そのために検定実施前には検定協会から配布される手引きをよく読んでおく必要があります。
ところが、昨日は検定直前まで授業が長引いてしまい、検定開始まで20分あまりという時間になってしまいました。手引きを手に取り、ものすごい勢いで各頁に目を通していきました。一通り目を通し、およその流れを理解したものの、細部に不安がちょっと残りました。細かいことですが、二枚重ねの問題用紙の形態が従来とは少し変わっています。手引きに目を通すも実物をじっくりと見る時間は残っておらず、どうもイメージがわきません。監督ですから、実施に支障はないのですがそんなことでも気になります。
受検者が一人二人とやってきはじめ、その都度入室を指示します。もう手引きをじっくり見ることもできません。後は滞りなく検定を進行させていくことだけに意識が向けられます。そして、受検者に注意事項を説明する時間になりました。説明は手引きに書かれている文章をそのまま読むことになっています。書いてある通りを読むだけだから楽だろうと思うのですが、変な所で「こだわり」が顔をのぞかせます。読み上げる文言を部分的に把握し切れていないことが妙に気になります。
それでも、とにかく読み始めました。その時、強く意識していたことは、書かれてある文章を正確にはっきりと読むこと、これだけです。全国で実施されている大規模な検定の手引きですから、検定協会だって練りに錬った文章で説明が書かれているはずです。ならば、読み上げる監督者とすれば、その意味するところを深く解釈することに意識を向けるよりも、正確にアナウンスすることの方が受検者には必要とされること、と思い込むことにしました。
検定直前の説明には10分ばかりかかります。結構長い時間です。正確を心がけてミスなく読み上げていきます。そして、先に触れました問題用紙の説明の部分に入りました。二枚の切り離しがどんなふうに行われるのか、読み上げている本人が具体的な映像が浮かんでこないまま、ひたすらていねいに読み上げていきました。
それでも、受検者全員がこちらの発する音声通りに行動します。問題用紙を切り離し、解答用紙を自分の手元に置き、開始の合図がいつでも出せるよう作業を進めていく様子を目にしながら、少しばかり不思議に感じられました。伝えるべきことがちゃんと伝わっています。…その後、検定は滞りなく終了時間を迎え、無事答案をすべて回収して終えることができました。ようやく気持ちがほぐれました。
次回からは、もっと時間に余裕を持った準備を心がけてようと思います。直前に慌てふためくのはあまりいいことではありません。ただ、今回監督をしていて感じたことがあります。それは、伝えることを伝えれば、後は受検者がちゃんとやる、ということです。検定を受ける目的と、実施する側の役割を考えれば、不要に余計なことを考えなくても事は進んでいく、と実感した次第です。
検定に限らず、厳正・公正な運営を行うためには、いろんな状況を想定して様々なところへ意識が向きますし、きっとこれからもそうでしょう。そんな中、「全てを自分が担っている」という力みを取るコツが、思わぬところでちょっと見えたような気がしました。
(2011.8.25)
<補足>
書きながら、自分に向けて反論が沸いてきました。以下のようなものです。
例えば、テレビドラマで、役者さんがセリフを喋っています。その役者さんはセリフの意味は分かっていないのだけれど、セリフ自体がよく錬られたもので、テレビを見ている人たちは、そのセリフを上手に喋る役者さんの演技に賞賛の声を贈っているとします。(実際にあることかもしれませんが…)
これは、先の検定の時の説明する監督と同じであって、セリフの意味の分からない役者さん的なものを勧めていると捉えていいのでしょうか?
これに対して、やはり自分の中からうっすらと「ノー」という返事が出かかっています。同じようだけど、違うものがぼんやりと見えます。続きは、もっと輪郭をはっきりさせてから、別の所で触れてみたいと思います。