「信じる」という言葉には、何か美しい響きがあります。何故だろうと考えてみるに、それは一方的にできることだからではないかと思います。「私はあなたのことを信じています。」と言えば、自分が信じるということは成立します。相手が自分のことを信じていようが信じていまいが関係なく成立します。
でも、実際にはそうでない場面も多々発生します。相手がどう思っているのかが重要になってくる場面です。自分の思いと違う行動を相手が示したとすれば、「あれほど信じていたのに、あの人は…」と相手を責めてしまいがちです。信じることは一方的に始まったことであっても、その経過の中で相手にも同意を求め、双方向的であるべきと、だんだんと意識が変わってきてしまいます。
実は、これは自分自身にあった出来事に基づいて記していることでもあります。まだ若かった頃の話ではありますが、「信じていたのに」と意識してしまった結果、「ああ、やってしまった」と若いなりに「後悔」ということを切実に実感した出来事です。思い出すと、ちょっと切なくもありますが、感傷的にならないよう心がけながら、書き記していきます。
若かった頃というのは、まだ大人になる前の頃のことです。どのくらい前か推察されずとも、当時は電子機器による通信、要するにメールやSNSなどのコミュニケーション手段のなかった時代です。当然、若い人たちのコミュニケーションの主流は、電話かあるいは手紙でした。「文通」という手段も最先端を行っていたのではないかと思います。
生意気にも、当時の自分にもペンフレンドが数人いました。その中の一人に、小学校の高学年から数年文通を続けた人がいました。その人とは手紙を通じて、ありふれた学校生活のことなどのやりとりを繰り返し、時には励まし合ったりしていました。それだけのことで充実感を得て、お互い遠方だったこともあり、一度も会うことなく、高校生になっても文通を続けていました。
高校生になってからしばらくして、その人は家の事情でやむなく高校を辞めざるを得なくなりました。その後も文通は続いていました。まもなく彼女は、手に技術を身につけて社会人となっていきました。社会のことなど全く分からない自分も自分なりに彼女のことを応援しようと手紙を書き続けました。そして、高2の夏休みだったか実際彼女の住む場所へ行って激励したりもしました。どこかで「彼女の役に立っている」という気持ちが生まれていました。
広島へ帰って、自分自身高校生なりの悩みを抱えながら日々を過ごしていたように記憶しています。全く余計なことながら、当時生徒会副会長をしていた自分にとって、生徒会長が不祥事で退学になるという、前代未聞の状況の中にあって、日々の対処に明け暮れる体験というのは、当時の自分にとっては精神的に辛かったようです。
自分には、文通相手に手紙を出すという行為が、心の安らぎになっていたようです。手紙をポストに投函した後、返信が来るのを心待ちにしていました。ところが、返信が1か月たっても2か月たっても返ってこなくなりました。いつもなら、もう返事が届いてもいい頃なのに、なかなか返事が届きません。だんだんと焦れた気持ちになってきました。
高校では不祥事の後も、いろいろな対応に追われ、新執行部組閣後も、新生徒会長の下、引き続き副会長に留任することになりますが、まだ緊張感の解けない日々を送っていたのだろうと思います。今にすれば、「何を甘っちょろいことを…」と思うのですが、当時の自分には目一杯だったようです。そして、そんな時に返事をくれない彼女に「あなたのことを信じていたのですが、もういいです。」と手紙を送ってしまいました。
皮肉なことに、翌日かその次の日だったか、彼女からの手紙が届いていました。もちろん、こちらからの手紙は読んでいないタイミングでです。読むと、新しい職場の仕事の都合で手紙が書ける状況ではなかった、とのこと。加えて今の仕事に対する前向きな言葉が次から次ぎへと記述してあり、こちらへの激励の言葉も添えられていました。
この時に思いました。「ああ、やってしまった」と。言うまでもありませんが、その後彼女から手紙が送られてくることは二度とありませんでした。「信じる」という言葉が軽くないことを身を持って思い知らされた出来事でした。
少しだけ、今のことを書き記します。こうした過去の切ない思いを昔語りで終えられるかと言えばそうでもなく、今でも味わいかねない心持ちに動いてしまいそうになることがあります。警戒心がいたるところで煽られ、「信じる」ことより、ひとまず「疑う」ことが世間の風潮となっている今、同じようなスタンスに軸を持ってしまいがちです。多くのお年寄りが心ない詐欺の標的とされ、子どもたちも、かかってきた電話に「はい○○です。」と名乗ってはいけない、と指導されるような時代に移り変わってきました。
それでも「信じる」ということに本当は今も昔もありません。最初に記したように、それは自分一人でできることだからです。信じられない理由を時代の変化や社会のせいにしてしまうのならば、それは本当に信じるということを行っていない証拠なのかもしれません。ある方が生前おっしゃっていたことは、「本当に信じているのなら、たとえだまされていたとしても、だまされたことに気がつかない。」でした。懐かしく思い出しました。
こんなことを書きながら、実は自分自身に言い聞かせているのかもしれません。休憩室ゆえにお許し下さい。つい先頃も、入試が間近の生徒と勉強の約束をしていたのにとうとう来ずじまい、ということがありました。「怠け心が出たのかな?」という思いがふと過ぎりました。実はこの生徒、この日に大きく体調を崩していました。何とか来ようとしていたようですが、それどころではなかったようです。
こんな調子で、ちょっとしたことで大切なものを壊していく展開と背中合わせです。もっともっと「信じる」ということを大切にしたい、と今の慌ただしい時期に思った次第です。
(2012.1.19)