何日か前に「学校へ行けない人へ」というタイトルのページをサイトに追加しました。どこの地域を見てみても、身のまわりを見渡してみれば、決して例外的なこととは言えなくなってきた「学校へ行けない」という現象を、当館がどう捉えるか記してみたのですが、さっそくと言うのか、今まさにその状況と真正面から向き合っています。
ここ数日間は、ある子どもを取り巻く状況の中で、時として緊迫感を伴う場面に関わってきました。詳しく申し上げることはできませんが、こちらの本気が試されているような状況にも何度か遭遇しています。何ぶんにも、理論通りにいかないのです。書物には載っていないような状況でも、瞬時にその場にあった判断を迫られます。
そのとき、自らが考えていることと言えば、使命感といった崇高な理念などとは違っているようです。実感として、そんなものの入る余地などありません。状況が横を向くことを許さないだけで、選択できるのは「前を向いておく」ことだけです。選択肢がないなら余計なことを考えることもありません。信頼できる方たちからアドバイスをいただきながらも、とにかく正面を向いています。
一人の子どもに対して、保護者の方を含めて、実に多くの大人が目をそらすことなく向き合っているのが分かります。それぞれが持っていらっしゃる思いをもって、それぞれの役割でご自分のできることをなさっています。誰か一人に「何とかしてもらおう」というものではないようです。そんなことをすれば事態がどうなるか、体験上みなさんお分かりなのでしょう。
その状況の渦の中に入り込んでいくと、原因はうすうす見えてくるにしても、「責任の所在」なんてことにも考えが及ばなくなります。そんな余裕などなくなるといった方が正しいかもしれません。不思議なことですが、同じ渦の中にいると「こうしてくれたらいいのにな」という思いは、言葉にしなくても、ちゃんとその方に伝わって実行してくれている、ということが何度かあります。
学校へ行けなくなるのには、本人の中で数か月あるいは長いと数年にわたって蓄積された背景となるものがあります。たった数日で元の状態に戻ることはまれでしょう。そこに無理な力を加えようとすると、かえっていびつな状態になるということも起こりかねません。そのような状態が長期間続いてくると、保護者の方にとっては精神的に辛くなってくることもあるでしょう。
私たちの心構えを問われたとき、「折れない心」という言葉を用いてお答えすることがあります。この「折れない心」というのは、実感として揺るぎない信念で力を入れ続けて維持するものではないようです。もしそれが「あるべき姿」だとしても、そんな人格者にはなれそうもありませんし、無理をして真似をしてしまえば、やはり辛さがどこからか滲み出てしまいそうです。
「折れない心」を必要とされる状態に身を置くからそうなる、不要なことは考えず無心で自分のできることをやる、これならできそうだし、そのようにしています。それが、まだ十数年の人生の中で、苦しい思いでいっぱいになってしまった若い人たちの心の中を軽くし、次の一歩を踏み出すきっかけを作るお手伝いになればと思っています。また、この頁で希望の持てるようないいご報告をお伝えできればと思っています。
(08.12.6)