3年くらい前だったでしょうか、ちょうど今頃の寒い時期で、ある方とお話をしたことを思い出しました。その人は、おそらく日本でも有数の経営コンサルタントとして知られる方が作られたユニークな会社の社員さんで、出張で広島に来られていました。
何の因果か、その方とお話をする時間を取ることになったのですが、こちらは小さな塾の人間ですから、彼とビジネスでの接点を見つけることは困難です。何のお話をしていいやら分からないまま、「まあいいや」と広島駅の近くでお会いしました。すると意外です。思いの外話が弾み、彼が話すことの中には面白いことがたくさんあるのです。
その中の一つに、標題にした「人のタイプ」に関することがありました。大ざっぱに見て人のタイプは大きく分けて三つに分類できるというのです。これは性格診断の一種なのでしょうが、あらかじめ準備しておいた、たくさんの質問項目に対して回答してもらった結果を分析していくと、たくさんの回答者の回答パターンは三つに集約されていく、ということが分かったのだそうです。次の三つです。
@ものタイプ…効率を重視して考える。ビジネスでは「この企画でどのくらいの採算が見込めるか?」「無駄なく計画を進めるための人の配置・スケジュールの管理」など、手持ちのピースの有効な活用の組み合わせなどが関心の中心。
A自分タイプ
…自分を基点に考える。自分がやりたいこと、人からされたいことを主として、「自分の行動が周りにどう影響を与えるか」「自分が周りにどう映っているか」などが思考の中心をしめる。
Bひとタイプ…文字通り、まず人のことが先にくる。自他の行動が周囲の人にどのような影響を与えるか推察し、極力摩擦を回避する行動を選択する。周囲との調和を優先して自分のことが二の次になりがち。
そう言われてみると、どのタイプも周りにいらっしゃるような気がします。「なるほど」と思うことがたくさんあります。たしかに、素人感覚では「あの人は○○タイプかな?」と何となく推察できそうです。ところが、実際にはこの分類は思っているほど単純ではないようで、「見た目」や「雰囲気」と分析の結果が一致しない場合が多々あるようです。
一見して「ひとタイプ」と思われる人が、分析をしてみると実は「ものタイプ」に分類されることがあるなど、いくつかの実例をあげて話してくれました。誰でも簡単に相手のことを見分けられるという訳でもないようです。ひょっとしたら、相手のことを分かったつもりでいても、実はそうでないことが多々あって、自分の先入観で相手の姿をホログラムのように目の前に作り上げているだけなのかもしれない、そんなことも思ったのでした。
そもそも、このタイプ分析は企業などの組織の中で適正に人を配置するためなどの目的で開発されたそうです。さすがに趣味でやっている訳ではなかったんですね。そんな大事な任務を抱えて広島へ来られて、きっと貴重な時間を割いておられるのだろうに、私の方はと言えばけっこう気楽な気持ちで同席させていただいていたようです。先方の意図と離れたやりとりをしていたのかもしれません。
彼の話によれば、同じタイプの人どうしはうまくいくといいます。「類は友をよぶ」と言われるように、同じタイプの人どうしがいっしょだと、確かにスムーズな関係が維持できそうなのは分かる気がします。出張で来られた彼は「ひとタイプ」と分析された私と同じで、やはり「ひとタイプ」ということでした。ここでも「なーるほど」という感じです。
それでは、異なるタイプの人との関係はどうなのでしょうか?「ダメ」と言うのであれば、確率からして世の中の3人のうち2人とは上手くいかないことになり、自らの世界を狭くしてしまうことにもなります。それならタイプごとに垣根で分断され、世の中が三分されてしまうことになります。実際そんなことはありませんが、書いていて何かのイメージを連想させます。(おぼろげで、何か思い出せませんが…)
異なるタイプに戻りますが、それに対しては、互いにない部分を補完しあってうまくいく組み合わせもあれば、互いの相違を受け入れるのが難しくて、ぎこちなくなってしまう組み合わせ方もあるということです。自分の過去の経験からも、思い当たる事例があるような気もします。このタイプ分析は、そうした好ましくない状況の発生を避けることにも役立つそうです。
確かに、大きな組織の経営者やリーダーがこの分析をフル活用すれば、組織の円滑化に相当の成果が期待できるのでしょう。でも「ひとタイプ」である彼は、私には「ムダ」だと思われたのでしょうか、ビジネスの話には一切触れることなく、かえって教育分野に関する話にも興味を持っていただいたり、ただただ和やかな雑談が続いたのでした。こちらから何のメリットも提供できませんでしたが、いまだに緩やかなつながりをいただいています。
タイプを分析することは、もっと言えば人様の性格を意識するということは、視覚に入るものを「赤」「青」「緑」と分類するようなもので、個々の色に優劣をつけることではないということです。それはそうでしょう。「好きな色」というのはあっても「秀でた色」というのはしっくりきません。どうしても個々の主観や評価が入ってしまいます。
各色とも、周りの配色によって際だつこともあるし、沈み込んでしまうこともあります。絵描きさんが色彩を学ばれるように、私たちが他の人々の内面を意識することは、周りとの調和のとれたつながりを築くのに役に立つことかもしれません。
誰だって争うことは好まないでしょうが、何かと「敵」を想定した構図が世の中の大きな枠組みや小さな枠組みの中で作られています。相手との違いが受け入れられなかったり、時には実像を見誤った姿で判断していることも多いような気がします。子どもたちもそれを見習って、「子ども社会」の中も敵だらけになりつつあるのではないかと気がかりです。
要らぬ気など遣わず、互いを認め、ゆったりと過ごすことのできる近未来の世の中に思いを馳せながら、ふと3年前と同じ、冷たく晴れ渡った空を眺めていました。
(09.1.26)