新年度を迎えて、みんな新しいスタートを切りました。この春、高校へ進学したある生徒に学校の様子を聞いてみました。そうすると、その生徒はお弁当の話題に触れ、自分が席を離れたときに、お弁当のおかずがなくなっていると言うのです。ちょっとギクッとしながら、あらゆる状況を想定して話の続きに耳を傾けました。すると、「でもねぇ、代わりに好物のおかずを入れてくれてるんだよ。」ということだったようです。
予想された展開とは異なり、ホッとしたのと同時にその状況を想像してみると、いたずらっ気の中にも微笑ましさが感じられて、思わず笑ってしまいました。この春から新しいスタートを切った人たちがみんな新しい仲間たちと、どうか楽しい学校生活を送ってもらいたいものと思います。
さて、ここからしばらくは先程のお弁当の話で、架空のストーリーです。
昼食の時間になると、決まってある生徒のお弁当のおかずの玉子焼きがなくなっています。お弁当箱の空いたスペースには、代わりのおかずなど入っておらず、時には食べかすやゴミが入れられています。とても食べようとは思えないお弁当箱に変わり果てしまっています。でも、周りの人は何事もないように自分のお弁当を食べています。中にはその子の方を向いて、玉子焼きを食べながら二ヤッと笑っている子もいます。
いずれ、いたずらはおさまるだろうと、その生徒はずっと我慢をしていましたが、1週間たっても2週間たっても一向におさまりません。むしろ、いたずらの度合いはエスカレートしていき、玉子焼きだけでなく、唐揚げやミートボールなどおかずを取られていく量がどんどん増えて、そしてゴミがどんどんお弁当箱の中に捨てられていきます。生徒の我慢も限界に達し、ある日自分の弁当に手がつけられる瞬間を目撃したその時、とうとう相手の生徒につかみかかり、怪我を負わせてしまいます。
この場面から情報が周りに流れていくと状況は違って見えてきます。悪いのは自分のお弁当にずっと悪さをされ続けてきた生徒ということになり、悪さをし続けてきた生徒は、怪我を負わされた「被害者」として伝えられることになります。「あの子は、同じクラスの子にいきなりつかみかかって怪我をさせたんだって。何にもしていないのにひどいよね。何であんなことするんだろう?許せないね。」といったように…。
もちろん、いかなる事情があったとしても、相手に怪我をさせることを正当化することができるわけではありません。ただ、背景にある「真相」に触れないことによって、事態が悪化していくという側面は見逃せません。
こうした出来事の真相は、周りに伝わっていきそうで、なかなか伝わっていかないものです。ましてや、こうしたいたずら(悪事?)に加担した人が複数いれば状況はやっかいなことにもなります。おかずを取られ続けてきた生徒が真実を語ったとしても、複数の証言によって強烈にブロックされてしまいます。「オレたちは何もしていないのに、あいつは何を被害者ぶってねじ曲げて言っているんだ!人に怪我をさせておいて、よくそんなことが言えるもんだ。」こんな感じで深層にある事実には目が向けられなくなっていきます。
同じような例は、海の向こうでも見ることができます。アフリカのインド洋に面するある国では、長年にわたり決まって複数の国の大型漁船によって、密かに領域内の魚がごっそりと捕られています。その国の小さな漁船が出漁しても、とても漁としては成り立たない漁場に変わり果ててしまっています。でも、大型漁船を操る複数の国は、何事もないようにその国の豊かな漁場の恵みを自国へ持ち帰ります。そして、代わりの資源を提供することなどはなく、時には有害な物質が領海内へ不当に投棄されています。
いずれ、こうした状況はおさまるだろうと、その国の人たちは我慢をしていましたが、10年たっても20年たっても一向におさまりません。むしろ、乱獲の度合いはエスカレートしていき、魚を捕られていく量がどんどん増えて、有害な物質がどんどん領海内へ捨てられていきます。その国の人たちの我慢も限界に達し、自分たちの漁場に踏み込まれた瞬間を目撃したその時、相手の国の大型船に襲いかかり被害を負わせます。
この場面から報道が周りに流されていくと状況は違って見えてきます。悪いのは自国の領海内でずっと漁場略奪をされ続けてきたその国の漁民ということになり、密漁をし続けてきた他国の大型船は、“海賊”に襲われた「被害者」として伝えられることになります。「あの国は、他国の民間船にいきなり襲いかかって被害を負わせたんだって。何にもしていないのにひどいよね。何であんなことするんだろう?許せないね。」といったように…。
もちろん、これとていかなる事情があったとしても、相手の船に被害を負わせることを正当化することができるわけではありません。ただ、背景にある真相に「触れない」ことによって、図式化された善悪の構図に誤認が含まれ、そのことが事態のさらなる悪化の要因となっているという側面は見逃せません。
個人のレベルの出来事から、世界のニュースになるような出来事まで、最初から最後まで全体が見えるということは希で、大抵はそのどこかの部分にスポットが当てられて目にしています。場合によっては、意図的に途中からの情報が提供されていたり、あるいはある箇所にはマスキングをして情報が広げられているということも少なからずあることでしょう。
こうした状況を意識することは、情報を受け取る側としては緊張感を強いられるし、あまり心地よさそうではありません。「この情報は大丈夫だろうか?」なんていつも思っていると、疑心暗鬼を助長するばかりで判断を一層鈍らせ、疲労感を一層増すばかりです。それでも、こうした不安感を払拭すべく活動されている方が少なからずいらっしゃることは心強く思われます。
省みて、学習塾という業界ではどうだろうかと言えば、残念ながら「情報のマスキング」は存在すると言わなければならないのかもしれません。その状況を維持することが誰の利益となるのか、それが大きな視点となるでしょうし、少なくとも学習塾を利用される生徒さんや保護者の方に不利益が発生することは避けなければならないでしょう。
それでもこの業界にも、こうした不安感を払拭すべく活動されている方がいらっしゃることは心強く思われますし、微力ながら当館も同じ方向で力を費やしていきたいと考えるばかりです。
ここで話が最初に戻りますが、この春から新しいスタートを切った人たちには、新しい仲間たちとゆったりとした気持ちで、どうか楽しい学校生活を送ってもらいたいものと思います。ここまでずっと読んでいただいて不安を感じられた方もいるかもしれませんし、日常の生活の中で、上記の架空のストーリーのような「危険」な状況を察知して、それを回避するためのアンテナを四方八方に向け、本能的にかすかな変化でも常にキャッチする、そんな緊張感の連続のような生活を経験されことのある人は少なからずおられると思うのです。
それならば、こうした状況は自分の周辺だけの例外的な事情ではなく、他の人の周辺でも起こったことがあることと推察するのは難しくないことでしょう。そして、マスキングされた裏側に存在する真相は、コモンセンスとでも呼ぶべき、本当に必要なときに威力を発揮する若い方たちの鋭いセンサーによって、徐々に表に引き出されていくことになるのではないかと考えています。
人目にさらされるのは不都合と思われる事実が、決して人の目に触れないように、様々な網の目をくぐり抜けて密かに実在しているとします。首尾よく長きにわたってその状態が維持できたとしても、内心は穏やかではないでしょう。いつもヒヤヒヤしていなければいけません。正々堂々と歩む道とは少し離れているようです。
「天網恢々疎にして漏らさず」…天の網の目は粗いけれど、何一つ見落としたりしていない、そう言った意味の言葉です。どこから見られたってやましさを感じない、そんな道を若い方たちには歩んでいってもらいたいものと思います。どうかゆったりとして、でもしっかりとした道を歩んでいってもらうことを願うばかりです。
(09.4.18)