もうずいぶん前になりますが、ある心理学のセミナーで聞いた話の中から、大きなヒントをいただいたものがあります。それを自分なりに整理してみると、いろいろと現状に適応します。以来、いろいろな場面で活用しています。
それは、「自転車乗り」に関することで説明されます。大きく分けて、世の中には自転車に「乗れる人」と「乗れない人」が存在します。乗れるか乗れないかですから、パッと見て見分けがつきます。そこで自転車に乗れない人が乗れるようになるには、どのような段階を踏んでいくかを考えてみると次のようになります。
第1段階は、自転車に乗ろうなどと意識したことがなかったので乗れない。小さい子どもさんなど、当然ここからスタートします。第2段階で、自転車に乗ろうと意識を変えますが、まだ乗れません。よろめきながら公園などで練習している、この段階です。そして、第3段階では、練習の成果が実ってやっと自転車に乗れるようになります。
めでたく自転車に乗れるようになると、「これで終わり!」となりそうなところですが、実際にはまだ続きがあります。簡単に言いますと、第3段階では、まだ「ぎこちない」のです。ハンドルやペダルに意識がいき、常に「自分は今、自転車をこいでいる」ということを実感せざるを得ない状態で運転をしています。
でも、長年自転車に乗っていると、もうハンドルやペダルには意識がいかなくなっているはずです。それらは手足の延長線上にあって、ことさら運転技術を駆使して自転車をこいでいるとは考えていないでしょう。乗ろうとは意識していないけれど、自転車には乗れている、これが第4段階です。(右図をご参照)
このように「自転車乗り」には、自転車に「乗れる・乗れない」の目に見える軸と、乗ろうと「意識する・意識しない」の目に見えないもう一つの軸があり、それによって、4つの段階が構成されている、と整理することができるのです。そして、ここからはいくつかの示唆に富むことを発見できます。
その一つは、「第3段階終点説」とでも言えばいいのでしょうか、習得した成果は常に意識しておくべき、という発想です。さらに願わくば、その意識は自分のみに留めずに、周りの人にも共通の意識として持ってもらいたいと考えます。この視点からすれば、あらゆる機会が自己アピールとなり、いろいろな所でPR合戦の繰り広げられる「活気ある」世の中が作られていきます。
もう一つは、「第1段階錯覚効果」とでもなるのでしょう。例えばこういうことです。野球のうまい少年がいます。バッターボックスに立てば、鋭い打球を打ち返していきます。友人が「どうやったら、そんなふうに打てるの?」と質問します。すると、その少年は「いや、来たボールをバーンと打ち返すだけだよ。」と返事をします。先天的に野球に資質のある子なら、そんな返事をするかもしれません。それを聞いて友人はこう思うかもしれません。
「ふーん、来たボールをバーンと打つだけか。それならボクのやっていることと変わらないじゃないか。ただ、バーンと打つことだけやってればいいんだからな。それなら、このままでもそのうちボクにも打てるようになるな。」と。段階を経ることなく、第1段階から第4段階が隣り合わせと錯覚して、ダイレクトにショートカットを試みます。そこから先どうなるかは、推して知るべしでしょう。
ただ、良いか悪いか分かりませんが、メディアのように第1段階を前提として受け入れる枠が少なからず存在しているように見受けられます。それを見た人が同じポジションを標榜するという流れが出来上がります。「そんなことをやっている場合ではないだろう」という声は空しくかき消され、声量に勝る「第3段階終点説」の方々も指定の枠を設けられ、メディアに露出機会も多くなり、ここにも一つの流れが出来上がり今日に至っているように思われます。
「自転車乗り」に戻ります。上の図では第1段階から第4段階まで平面上をグルッと時計回りに一周しているようにも見えます。しかし実際には、右の図のように立体的な構造で捉えた方が正しいように思われます。
第1段階からは、第4段階に向けて垂直な絶壁がそびえ立っています。第3段階へも対角線上に隠され、直行はできそうにありません。やはり、一歩一歩階段を上っていく作業を若い内から身に付けておくことが大切であると思えてならないのでした。
(09.5.12)
<追記>
お仲間の先生方から「勉強会はまだか?」と声をいただいています。ありがたく思っています。私たちも同じ思いでおります。準備が整い次第、また声をかけさせていただきます。もうしばらくお待ち下さいね。