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ちょっと休憩室で…

 

 

ホームページを気を入れて作ってみると、「こんなにエネルギーを使うものか」と実感しました。ささやかなサイトに過ぎないのですが、それでもです。

このページは、特にテーマを設けず、その時々のことをちょっと息を抜いて書き込ませていただく、という制作者が休憩させていただく勝手なページです。申し訳ありません。

 

 

 

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   ペルソナ
 

「本が出しっぱなしになってますが、最後に見た人は誰ですか?」こういった質問の後は、たいてい沈黙のシーンから始まります。そのあと発せられる声も「ボクじゃないよ」「最初から出てたんじゃないの?」と、およそ問題解決とは程遠い方向の発言です。こうして問題解決が手間取るか、上手でない対処をすると、気まずい雰囲気が後に残ります。

 

事実は一つです。最後に見た人が必ず一人だけ存在します。その人が「すみません、私です。すぐ片づけてきます。」と言えば後は何事もなくスムーズにいくだけのことです。この簡単そうなことがなかなかできません。なぜなのか、その背景がよくつかめません。おそらくでしかないのですが、その理由の一つに思いつくのが、「目立ちたくない」ということです。

 

当事者であろうと、そうでなかろうと、自分を通して問題解決が図られる(=深く関わる?)ことを嫌っているのではないでしょうか?多くの人が集団の中で何十分の一、何百分の一に溶け込んで、「ノーマーク(=自己の匿名化?)」の状態で、好きなときに好きなようにしゃべり、好きなことをすることを望んでいるようにも見えます。

 

「目立ちたくない」と言ったって、平気でテレビ画面の中でインタビューに答えたり、タレントとやりとりをしている若者たちを見ると、充分に自分を引き出す力を持っているようにも見えます。気後れする素振りもなく堂々としていますが、やや好意的でない表現をすると、マスメディアをフルに活用して得る「名答集(=受けそうなフレーズ?)」の中から、その時の「お気に入り」のものを引き出して言葉にしているようにも思えます。

 

やはり何か「目立たせたくない」ものを密かに、かつ大切に持ち合わせているようにも見えるのです。それは、ひょっとして「自分の本心」のようなものなのかもしれません。とりあえず話を進めていきます。

 

「ノーマーク」を好む人が多数を占める集団や社会の中では、当然ながらそれぞれの「目立たせたくない」ものに意図して触れることはありません。個々人のその部分は安全が守られた状態が基本となります。そこでは「駅前の壁に落書きをしたのは誰だろうか?」「インターネット上で誹謗中傷している、あのHNの人はだれだろうか?」…といった質問への返答は限りなく小さなものとなっていきます。

 

このような安全が担保されていると思える環境の中で、「○○くんに勝手に鉛筆を持っていかれました。」「あの不正な経理処理をやった人は○○さんです。」「△△さんが覚醒剤をやっていました。」と突然予想もしていない実名が、同じ集団・社会の中でクローズアップされます。

 

自分ではない別の個が「目立つ」状態にさらされると、俄然多くの注目がそこへ集まります。自分へ向けられることは好まない注目が、自分以外の所へ集まると、それは「関心」に変わります。その関心事を通して、多数の人が「あれは許せない!」など正義感を背景にした共通の認識を介して、あたかも「連帯感」を有するように仕向けられているようでもあります。

 

この連帯感が有効に機能している間は、注目は外の一点に向けられています。少なくとも自分の「目立ちたくない」欲求は満たされた状態が続きます。この状況を維持するためには、絶えず外部で共通の関心事が提供され続けている必要があります。必要とあらば、関心事の創造という作業も需要のある作業として機能しているのかもしれません。無理にでも一つのことに注目させること、それは日常の子ども社会の中でも、世の中の大人社会でも、同様のことのようです。

 

心理学の用語でペルソナがあります。ギリシア語で「仮面」を表し、役割上作られた性格という意味合いで用いられます。誰でも学校や会社、そして家庭で見せる顔は異なります。相手によって変わることもあります。それは人間なら当然起こる現象で、特段否定すべきことでもなさそうです。問題は、このペルソナが自分でコントロールできるかどうかにありそうです。

 

ペルソナの中には、「お気に入り」になっていくものもあることでしょう。それを長時間「装着」していると、ある種の心地よさを得る場合もあります。そして、そのペルソナを自分の素顔と錯覚してしまうとどうでしょう?剥がしても剥がしても、なかなか自分の素顔が表れず、どれが自分の素顔だったのか分からなくなってしまうという、心のバランスの崩れた状態となってしまう危険もありそうなのです。

 

子ども社会も広く見渡せば、状況に合わせて巧みにペルソナの使い分けをする、そのことに意識が過剰に反応しがちな環境になってきているのではないかと思われます。必要なときには、いつでも素顔のニュートラルに戻れることが、今のせわしない世の中でもっと注目されてもいいような気がしています。

 

外では真夏の太陽が、真上からアスファルトを焦がしながら降りそそいでいます。階段を上がってくる元気な足音が聞こえてきました。夏休みの宿題をたっぷりと残した、わんぱくな中学生たちです。笑える状況ではないだろうに、楽しそうな様子で元気いっぱいに宿題に取り組んでいます。そんな彼らの「素顔」を見ながら、なぜかホッとする気持ちの夏の昼下がりを過ごしています。

(09.8.24)

 

 

クョスコニョ    [1] 
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